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4月29日は、激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす昭和の日
昭和天皇のお誕生日です。
昭和天皇がご存命中、戦前は「天長節」、戦後は「天皇誕生日」でしたが、昭和64(1989)年1月7日に崩御されたので、「天皇誕生日」は上皇陛下のお誕生日である12月23日に移りました。
4月29日はゴールデンウィーク中の一日ということで、名称を「みどりの日」に変えてそのまま祝日として残りました。
しかし激動の昭和を生き抜き、大東亜戦争の終結に卓越した指導力を発揮された昭和天皇にふさわしい名称を残そうとする国会議員によって「昭和の日」を実現する運動が起こりました。
議員立法を三度、国会に提出し、平成17(2005)年の第162回国会で法案が成立に至りました。
これによって平成19(2007)年から4月29日は「昭和の日」となり、「みどりの日」は5月4日に移動しました。
世界の歴史を見ると、戦争に負けた国が王制を維持できた例はほとんどありません。第一次世界大戦の敗戦国だったドイツ、オーストリアの君主制は滅びました。
大戦中にロシア革命が起こり、ロシアの皇帝も殺されました。
第二次世界大戦ではイタリアを初め、敗れた枢軸国側のユーゴスラビア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアの王朝がみな倒れました。
そのような世界史の流れからすると昭和天皇が自ら終戦の決断をされ、戦後も退位することもなく歴代天皇の中でもっとも長い在位を保たれたことはまさに奇跡と言えるでしょう。
昭和天皇が終戦のさいに詠まれた和歌です。
身はいかに なるともいくさ とどめけり
ただたふれゆく 民をおもひて
愛国女性のつどい花時計
さて、4月29日は、昭和天皇の御誕生日。
「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」昭和の日だ。

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昭和天皇
4月29日は「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」昭和の日だ。
【昭和天皇のお話】
●戦中

アッツ島の守備隊
昭和18年(1943年)5月12日の米軍アッツ島上陸以来、昭和天皇は、同地の守備隊の模様をいたく気にかけられ、 毎日のように戦況を御下問されておられた。
5月29日夕刻、守備隊から最後の電報が発せられた。
「機密書類全部焼却。是レニテ無線機破壊処分ス」
陸軍大臣は、直ちに参内し、アッツ玉砕を天皇に奏上した。
陛下は、陸軍大臣大臣の報告を黙って聞くと、目を閉じしばし佇立された。
そして、ひと言、 「アッツ島守備隊は、まことに最後まで良く敢闘した。このことを伝えよ。」 とおっしゃった。
陸軍大臣は、陛下が自分の報告を聞き違えられたかと思い、言葉を返した。
「恐れながら陛下、彼らは無線機を既に破壊しており、お言葉をお伝えする手段がございません」 と申上げると、
陛下は、 厳しい声で、「構わぬ。それでも構わぬから、そういう電波を出しなさい!」とご命令された。
陸軍大臣は一礼して引き下がり、控えの間に至ると両手で顔を覆って男泣きに泣き崩れた。
直ちに北のアッツ守備隊に向け、電報が放たれ、陛下の御言葉が打電され続けた。
勿論、アッツから返事が来ることはなかったが。

アンカレッジの博物館には、昭和18年(1943年)5月に、アッツ島で玉砕した日本軍将兵の遺品が展示されている

■動画
『 凛として愛 』
http://www.youtube.com/watch?v=HBxaF0wps6U
57:17~
大東亜戦争最初の玉砕地となった北のアッツ島では、山崎保代大佐以下2,500の将兵が守備していたが、15,000のアメリカ軍相手に18日間善戦。
昭和18年5月29日、敵陣地の突撃して玉砕した。
アッツ島守備隊の最期が天皇陛下にご報告されると、
陛下は、「最後まで良く敢闘した。このことを伝えよ。」と言われたが、既に将兵は玉砕し、無線機も破壊されてない。
そのことを申し上げると、陛下は厳しい声で、「それでもよい!電波を出しなさい!」とご命令されたという。
雪と氷で閉ざされた北のアッツに向けて、陛下の御言葉が打電された。
諸国のために散華された2,500の将兵は、陛下の御言葉を耳にしたのであろうか。
●戦後
昭和天皇が終戦の際に詠まれた和歌。
身はいかに なるともいくさ とどめけり
ただたふれゆく 民をおもひて

昭和天皇の戦後の全国ご巡幸
毎年「昭和の日」に、私は、昭和天皇の全国ご巡幸などについて紹介している。
日本が戦後、奇跡と呼ばれる復興をなしえた1つの要因は、全国ご巡幸で国民を励まされた昭和天皇を中心に、日本が結束を保ったことだった。
このことは、私たち日本人が永久に語り継いでいかなければならない。
まだ読んでいない方は勿論だが、既に読んだことがある方も、「昭和の日」を機会に改めて読んで頂ければ幸いだ。

●マッカーサーを感動させた昭和天皇の言葉
(終戦時において)陛下に対する占領軍としての料理の仕方は、四つありました。
一つは東京裁判に引き出し、これを絞首刑にする。
一つは共産党をおだてあげ、人民裁判の名においてこれを血祭りにあげる。
三番目は、中国へ亡命させて中国で殺す。そうでなければ、二〇個師団の兵力に相当するかと怯えた彼らです。
また第四番目は、闇から闇へ、一服もることによって陛下を葬り去ることでありました。
いずれにしても、陛下は殺される運命にあったのです。
天皇は馬鹿か、気狂いか、偉大なる聖者か、いつでもつかまえられる。
かつては一万八〇〇〇人の近衛師団に守られたかもしれないが、今や全くの護衛を持たずして、二重橋の向こうにいる。…
陛下の割腹自刃の計画は、三度ありました。
貞明(皇太后)様は、(侍従に、)陛下から目を離さんように命じました。
じつに一番悩まれたのは、陛下でありましたでしょう。
九月二七日、陛下がただ一人の通訳を連れて、マッカーサーの前に立たれたことは、皆様方もよくご承知の通りであります。
ついに天皇をつかまえるべき時が来た。
マッカーサーは、二個師団の兵力の待機を命じました。
マッカーサーは、陛下は命乞いに来られたものと勘違いし、傲慢不遜にもマドロスパイプを口にくわえて、ソファーから立とうともしなかった。
陛下は直立不動のままで、国際儀礼としてのご挨拶を終え、こう言われました。
『日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟はあります』
――弱ったのは通訳でした。その通り訳していいのか
――しかし陛下は続けました。
『しかしながら、罪なき八〇〇〇万の国民が、住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように』
天皇は、やれ軍閥が悪い、やれ財界が悪いと言う中で、一切の責任はこの私にあります、絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処せられても…と淡々として申された。
このような態度を見せられたのは、われらが天皇ただ一人であったのです。
陛下は我々を裏切らなかった。
マッカーサーは驚いて、スクッと立ち上がり、今度は陛下を抱くようにして座らせました。
そして部下に、「陛下は興奮しておいでのようだから、おコーヒーをさしあげるように」と。
マッカーサーは今度は一臣下のごとく、直立不動で陛下の前に立ち、
「天皇とはこのようなものでありましたか!天皇とはこのようなものでありましたか!私も、日本人に生まれたかったです。陛下、ご不自由でございましょう。私に出来ますることがあれば、何なりとお申しつけ下さい」
と。
陛下は、再びスクッと立たれ、涙をポロポロと流し、
「命をかけて、閣下のお袖にすがっておりまする。この私に何の望みがありましょうか。重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」
と。
そののちマッカーサーは、陛下を玄関(ホール)まで伴い、見送ったのです。
皆様方、日本は八〇〇〇万人と言いました。
どう計算しても八〇〇〇万はおらなかったでしょう。
いかがです?
一億の民から朝鮮半島と台湾、樺太をはじめ、すべてを差し引いて、どうして八千万でしょうか。
じつは六六〇〇万人しかいなかったのです。
それをあえて、マッカーサーは、八〇〇〇万として食糧をごまかして取ってくれました。
つまりマッカーサーは、いわゆる、陛下のご人徳にふれたのです。
米国大統領からは、日本に一〇〇〇万の餓死者を出すべしと、マッカーサーに命令が来ておったのです。
ただ一言、マッカーサーは、
『陛下は磁石だ。私の心を吸いつけた』
と言いました。
彼は陛下のために、食糧放出を八〇〇〇万人の計算で出してくれました。
それが後で、ばれてしまいます。
彼が解任された最大の理由はそれであったというのが、事の真相です。
【マッカーサーおよび侍従長の証言】
以上が、三上教授の講演の言葉である。
この講演にも出てきた一九四五年九月二七日の天皇とマッカーサーの会見については、辻井圭三氏(キリスト伝道会「活水の群」副理事長)も、こう書いている。
「この件については、第二回目の通訳をされた、内閣情報局総裁であり戦後外務次官も務められた奥村勝蔵氏を通じて、私は詳しく伺いました」
そして、三上教授の言っている通りであると述べている。
実際マッカーサー自身が、のちに回顧録の中で次のように書いたのである。
「天皇の話はこうだった。
『私は、戦争を遂行するにあたって日本国民が政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対して、責任を負うべき唯一人の者です。あなたが代表する連合国の裁定に、私自身を委ねるためにここに来ました』
――大きな感動が私をゆさぶった。
死をともなう責任、それも私の知る限り、明らかに天皇に帰すべきでない責任を、進んで引き受けようとする態度に私は激しい感動をおぼえた。私は、すぐ前にいる天皇が、一人の人間としても日本で最高の紳士であると思った」
(マッカーサー回顧録一九六三年)
天皇とマッカーサーの会見は、はじめ一五分の予定だった。
しかし、マッカーサーは天皇の態度に深い感銘を受け、会見は三五分にも及んだのである。
会見がなされると、その会見の要旨は後ほど通訳の手で文書にまとめられ、侍従長に渡される習慣になっていた。
会見の翌日、藤田侍従長は、会見における天皇の発言の要旨を文書にまとめたものを、通訳から受け取った。
藤田氏は、いつものようにそれに目を通したうえで、天皇のもとに提出した。
藤田氏はこのとき、メモをとらなかった。
しかし彼はのちに、その内容について二つの点をはっきり憶えていると言って、次のように著書の中に書いている。
「…陛下は、次の意味のことをマッカーサー元帥に伝えられている。
『敗戦に至った戦争の、いろいろな責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任がない。
私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい』
一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝になると、この天真の流露は、マッカーサー元帥を強く感動させたようだ。
『かつて、戦い破れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終わったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これすべて陛下のお力添えである。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わなければならぬことは多い。どうか、よろしくお願い致したい』」
とマッカーサーは言った(藤田尚徳『侍従長の回想』昭和三六年)。
メールマガジン
「話題通信」

■動画
昭和天皇とマッカーサーの会見を通訳官が証言 The testimony of the interpreter
https://www.youtube.com/watch?v=inE1DSH0jrk

戦災者住宅で戦災者を激励される昭和天皇、昭和21年(1946年)2月19日 神奈川・横浜
●貞明皇太后の前で泣いた昭和天皇
また、さらにご立派であったのは、貞明皇太后でした。
母君の貞明様は、亡くなるまで防空壕の中で生涯を送り、雨漏りのする、そして皆様方、貞明様は法華経の信者でしたから、戦死者のお名前を一〇人ずつ書きながら、法華経をあげて生涯を送られたのです。
その貞明様が、皇霊殿に陛下をお招きになりました。
皇霊殿は高いので、東京の市中が見えるのであります。
焼けただれ、一日千秋の思いでわが子の復員を待つ年寄りたちの姿も、見えるのであります。
貞明様は陛下にそれをお見せになり、
「陛下、国民は陛下のご不徳によって、このように苦しんでおります。この国を一日も早う復興しようと召されず、お腹をおめしになろう(切腹しよう)などとはご卑怯ではありませんか。退位は絶対になりません!」
陛下は、母君の前で頭を垂れて泣かれたそうです。
どうしたらいいのかと。
陛下の万歳を叫んで死んでいった護国の英霊の労苦を労いなさい、遺族の労苦を労いなさい、産業戦士の労苦を労いなさい――これが、後の陛下の行幸(外出)になったのでした。
原爆の地、広島に行幸された時でした。
共産党の腕利きが、今こそ「戦争の元凶である裕仁に対して恨みを報いようではないか」とビラをまき、宣伝カーで叫んでいました。
しかし、陛下は一兵の護衛をも持たず、ツギのあたった背広をお召しになり、中折れ帽をかぶって、広島の駅頭に立たれたことは、われらの記憶に新しいところであります。
むしろ陛下がおいたわしかった。
「万歳、万歳」の歓呼をもって迎えられました。
言えばやはり記録に残りましょうから、その県名と市名はもうしませんが、北陸のある所(福井市)においては共産党が、「朕はたらふく飯を食う。汝臣民飢えて死ね」とプラカードを仕立て、二〇〇〇名のデモ行進をやっていました。
「陛下、お逃げなさい」
しかし陛下は、「私に面会を申し込んでいる限り、私が会いましょう」と言って、皆の前に頭を下げられました。
「皆様方が私を打擲することによって心が癒えるならば、ごずいにめされたがいい。でも日本の国を一日も早う復興し、次の子孫へこの国を送り得てこそ、はじめて護国の英霊に対し、我々が報いる道ではなかろうか」
と陛下は申されたのでした――はっきり言ったほうが良かったのかも知れませんが、場所を。
陛下に向かっての発砲もありました。
八二歳のある老婆が犠牲になったことも、中国地方の一角でありました(広島で、陛下をねらった弾がはずれて老婆に当たった事件)。
陛下の行幸は、そういう中に続いたのであります。…
歩一〇四記念講演特集号より

釜石
昭和21年(1946年)から昭和29年(1954年)までの間に行われた御巡幸では、敗戦直後で宿舎がままならず、陛下が列車の中、学校の教室に泊まられた事もあった。
それでも陛下は、「戦災の国民のことを考へればなんでもない。十日間くらゐ風呂に入らなくともかまはぬ」とおっしゃり、御行幸を続けられた。



広島が人類初の核攻撃を受けた2年4カ月と1日後、昭和22年12月7日に昭和天皇は広島に初めて行幸をなさった。背後に原爆ドームを臨む空間に詰めかけた広島市民は熱狂で昭和天皇を迎えた。この光景はGHQに衝撃を与え、天皇の巡幸を一時中止させる。そして占領計画の改定を謀った。 https://t.co/EXGb0jPfpu pic.twitter.com/0ZQwlBYhLi
— 西村幸祐 (@kohyu1952) April 29, 2023
https://twitter.com/kohyu1952/status/1652294237332066305
西村幸祐
@kohyu1952
広島が人類初の核攻撃を受けた2年4カ月と1日後、昭和22年12月7日に昭和天皇は広島に初めて行幸をなさった。
背後に原爆ドームを臨む空間に詰めかけた広島市民は熱狂で昭和天皇を迎えた。
この光景はGHQに衝撃を与え、天皇の巡幸を一時中止させる。
そして占領計画の改定を謀った。
■動画
午後9:50 · 2023年4月29日
昭和天皇が硫黄島に行かれた時、硫黄島自体がお墓だからとおっしゃり、靴をお脱ぎになって上陸された。
ちなみに小沢一郎は普通に靴をはいていたそうだ。
遺骨収集が完了していない地下壕跡に入るときには、周りの案内役もそのまま足を踏み入れたのに、陛下だけは靴をお脱ぎになって裸足になられた。

硫黄島

昭和63年9月、陛下が病床につかれると、全国の御平癒祈願所に約9百万人が記帳に訪れた。
40数年間の御巡幸で陛下に励まされた人々も少なくなかった。
陛下は、病床で「もう、だめか」とおっしゃったことがあった。
医師たちは、陛下がご自分の命の事をおっしゃったのかと思ったが、実は「沖縄訪問はもうだめか」と問われたのだった。
御巡幸の最後の地、沖縄に寄せられた昭和天皇の御心は、平成の御代(平成5年)になって上皇陛下によって果たされた。
東京の空を台風が過ぎ去った翌日、侍従長は、昭和天皇に「台風が去ってようございました。」と申し上げた。
すると、陛下は、次のとおりおっしゃった。
「… まだ、東北、北海道地方はこれからである。」
「4月29日は、激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす昭和の日。昭和の天皇陛下、ありがとうございました!」
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恐怖心が餌となる構造(だった)
https://www.youtube.com/watch?v=EAHQOf5JPOs
プラトン立体は高次元の影だった!?【宇宙のマトリックス】
https://www.youtube.com/watch?v=Jzx1ut9AAGg
毎日楽しく拝読させていただいています。
毎年のこの昭和天皇陛下のブログは友人・知人30人ほどに転送しています、是非とも読んで欲しいので。
結びの言葉は「陛下、有難うございました!」から「昭和の天皇陛下、有難うございました」にされたのですね。
「陛下、有難うございました」が目の前の陛下に声をかけさせてもらってるように思えますが。
でも、もう2代変わったので、敢えて、昭和天皇陛下、という表現にされたのかと。
いいと思います。
これから30人に転送させていただきます。
来年以降も宜しくお願い致します。
寺島孝
>4月29日は、激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす昭和の日
次期国政選挙は其の意味でも重要です!
>さて、4月29日は、昭和天皇の御誕生日。
> 「昭和の天皇陛下、ありがとうございました!」
Wクリック!!
■ アメリカが多数の原爆を持っているという証明
当時の日本の軍部や政府は、原爆の製造が非常に困難であることを理解しており、アメリカが一発しか原爆を持っていないという見方すらありました。これは単なる脅しだと見なす者もいたため、アメリカは一度きりの攻撃ではなく、続けて原爆を投下する必要がありました。これにより、アメリカが多数の原爆を保有していることを証明し、日本に対して圧倒的な軍事力を示す必要がありました。
■ 1942年のドーリットル空襲の教訓と民間人の犠牲
顧みると、日本がドーリットル空襲を受けた際、明治維新以後の対外戦争で初めて首都圏が攻撃され日本国内で民間人の犠牲者が出ました。子供も亡くなりましたが、日本政府や軍部はその犠牲を重く見ず、むしろ被害を隠そうとしました。これは大きな間違いでした。本来であれば、子供の犠牲者を全国民で悼み、子供が犠牲になるような戦争は止めようという世論を喚起すべきでした。なぜなら、日本が掲げた戦争目的は自存自衛であり、人道的な観点から戦争を継続すべきでないという点を主張する必要があった筈だからです。
■ 停戦の機会を逃した日本
アメリカによるドーリットル空襲の段階で、当時、まだ日本に残留していたグルー駐日大使を通じてルーズベルト大統領に日本の停戦の意志を伝えておくべきでした。そうすれば、停戦の糸口がつかめたかもしれません。後から振り返ると、日本はドーリットル空襲を受けた時に停戦を考えるべきでした。その時点で日本はシンガポールを陥落させ、英米はロンメルのエジプト侵攻を恐れていたため、日本が停戦を申し入れれば、停戦の可能性は十分にあり得たのです。また、東京空襲はアメリカが真珠湾攻撃の復讐を果たしたタイミングでもあり、停戦を受け入れ「売られた喧嘩を止める」アメリカ側の面目も立ちました。ですから日本の民間人の犠牲を大きくアメリカに伝えたならば、アメリカの人々やルーズベルト大統領の判断にも影響を与えたでしょう。真珠湾攻撃では、アメリカの民間人に大きな犠牲は出ていなかったからです。しかし日本の軍部は、昭和天皇が捕虜にしたアメリカの若者を武士道の観点から寛大に処置するよう伝えたにも拘らず、適当な裁判で処刑したりしました。そして処刑した後で、そのことは天皇陛下に報告されたのです。
■ 結論
原爆が二発投下されたのは、アメリカが多数の原爆を保有していることを日本に示し、降伏しなければ攻撃が続くという意志と能力を明確にするためでした。しかし、日本は早期に戦争終結を考えなかったために多くの犠牲を払いました。振り返れば日本はドーリットル空襲の段階で、民間人の犠牲を重く受け止め、戦争を継続すべきではないという人道的な観点から早期に停戦の意志を示すことで、戦争の終結を図るべきだったのです。この判断の誤りが大きな犠牲を生み出しました。この誤りを深く反省し、歴史の教訓として未来の平和を築くために学び続けることが重要です。
日本ニュース 第12号 昭和15年 ドイツ軍英本土総攻撃開始
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009180041_00000
↑
日本が三国同盟に加わった理由は、イギリスの降伏に備え「バスに乗り遅れるな」と勝ち馬に乗ろうとしただけです。
現下の情勢判斷に關する英首相チヤーチルの松岡外相宛書簡
https://worldjpn.net/documents/texts/pw/19410412.O1J.html
チャーチル首相の松岡洋右外相宛書簡
https://kbaba.asablo.jp/blog/2024/06/02/9689553
↑
ヒトラーに何度も騙されているのに、日本は枢軸国に参加すべきでは無かったですね。松岡洋右はチャーチルの忠告を真面目に聞くべきでした。
永田鉄山、石原莞爾、武藤章…陸軍の戦略構想から見える「対米戦」への分岐点
https://rekishikaido.php.co.jp/detail/6335?p=1
<武藤ら陸軍が資源計算したところ、日本は独自で4年間の長期戦を戦えるだけの資源を確保しなければならず、決定的に不足するのは、石油、ボーキサイト、そしてゴムであった。ボーキサイトは飛行機の機体に、ゴムは戦車に必要であった。
ただいずれも、中国では足りず、石油はインドネシア、ボーキサイトはインドネシアとマレー半島、ゴムはマレーとインドシナ半島に存在した。
となると、これらの地域を日本の影響下に置かなければ、4年間の長期戦は戦えない。
折しも、ヨーロッパでは、ドイツがフランスとオランダを占領していた。
これによって、仏領だったインドシナ半島(仏印)はドイツの影響下に、オランダ領のインドネシアは、オランダ政府のイギリス亡命により、その影響下に入る。
さらにドイツは、イギリスとの戦いを優位に進めており、仮に勝利すれば、東南アジアの植民地すべてが、ドイツの影響下に置かれる。
ここにおいて、武藤ら陸軍は、日独伊三国同盟を結び、ドイツに東南アジアの資源取得を認めさせるかわりに、対英参戦を考える。ただし、そうなると米英の関係から、アメリカとも戦争になる可能性がある。
もっとも陸軍も、国力が12倍もあるアメリカとは戦いたくない。そこで、ソ連と日ソ中立条約を結び、日独伊ソの4国で、ユーラシアを制し、それによって、アメリカの介入を防ごうと企図する。
かくして昭和15年(1940)9月には日独伊三国同盟が、翌16年(1941)4月には日ソ中立条約が結ばれる。>
『日中戦争の正体』中共・ソ連・ドイツにだまされた
https://www.suzusou.info/20200801-video
#51 独ソ開戦間近!日本は米英親善へ舵を切るチャンスがあった
https://seijikeizai.jp/103610/
1942年4月18日のドーリットル空襲は、ある意味真珠湾攻撃よりも衝撃的か!?の巻
https://ameblo.jp/harimano-kami/entry-12797445683.html
Fiona Apple - Across the Universe (Official HD Video)
https://www.youtube.com/watch?v=CmlnO1EwCT4
https://tinyurl.com/2ccfr5db
>同社のウェブ上のアンケートモニターサイト「くらするーむ政治部!」の登録者を対象に4月25日午後~4月28日午前まで実施、全国の1943人(男性1311人、女性566人)から回答があった。自民党の有力議員だけでなく、他党の党首クラスや非国会議員も含めた25人を選択肢に入れた。
との事です。
産経のアンケートですから、其れなりの偏りはありましょう。逆に「保守層」と目されるJ人々の意見を集約した物、と観れば良い資料だと思います。
>同社のウェブ上のアンケートモニターサイト「くらするーむ政治部!」の登録者を対象に4月25日午後~4月28日午前まで実施、全国の1943人(男性1311人、女性566人)から回答があった。自民党の有力議員だけでなく、他党の党首クラスや非国会議員も含めた25人を選択肢に入れた。
との事です。
>その結果、高市早苗前経済安保相が40・8%で、2位の小泉進次郎前環境相(5・1%)、3位の玉木雄一郎・国民民主党代表(4・8%)、4位の野田佳彦・立憲民主党代表(4・6%)に大差をつけてトップとなった。石破首相は4・2%で5位だった。高市氏を選んだ人は自民支持層の過半数を占めていた。
との事。1位とは圧倒的大差とは言え2位が小泉、と言う辺りが「懲りねえな~」と感じますね。玉木の方が遥かにマシだと個人的には思いますが、此の結果は、自民と言う「ブランド力」の所為では無く、単に両者の知名度の差でしょう。現に、野田と石破では、野田が選ばれて居ます。野田が元首相だった点が評価に繋がって居ます。
>非国会議員では百田尚樹・日本保守党代表が、小林鷹之元経済安保相と並ぶ2・9%で全体の6位、吉村洋文・日本維新の会代表が2・2%で9位だった。
政党支持率では自民は許より維新にすら及ばない党の代表で在る百田が、小林、吉村を抑えて6位に着けた点が注目されます。ネットでは、日本保守党の内紛を取り上げ、頻りに叩く向きも散見されますが、此の結果を見ると、ネットで保守党を叩いて居る層の性格が自ずと明らかに為って来ます。支持率では日本保守党と肩を並べる参政党や国民民主に次ぎ人気の或るれいわ新選組の党首が「御呼びで無い」のも、此のアンケート回答者達の特徴で、陰謀論や、ヤケノヤンパチ的政治観とは無縁の伝統的な「保守層」像が浮かび上がって来る様です。
『 4月29日は、激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思い
をいたす昭和の日 』
【 日本経済新聞 2014年9月9日 5:00
昭和天皇の靖国参拝取りやめ、A級戦犯合祀が理由
https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG08H0S_Y4A900C1CR8000/
実録で179カ所に典拠資料として採用された「富田メモ」は、1975年を
最後に昭和天皇が靖国神社を参拝しなくなった理由が、78年10月のA級戦犯合祀
(ごうし)だったことを明らかにした。富田朝彦元宮内庁長官は天皇が合祀ゆえに参拝を
やめたと語った言葉をメモしていた。
その後、『卜部亮吾侍従日記』、天皇の和歌を指南した歌人の岡野弘彦氏の『四季の歌』
など、同様の事実を裏付ける資料が出版され、近年の昭和天皇研究では定説となって
いる。
実録では、88年4月28日の項に「靖国神社におけるいわゆるA級戦犯の合祀、御参拝
について述べられる。なお、平成十八年には、富田長官のメモとされる資料(靖国神社に
おけるいわゆるA級戦犯合祀の経緯や御参拝に関する記述が含まれる)については 『日本
経済新聞』(七月二十日付朝刊)が報道する」と記述された。
Nikkei Inc.No reproduction without permission. 】
→ 昭和天皇が、1975(昭和50)年を最後に、靖国神社を参拝しなく
なったのは、1978年10月、処刑された東条英機元首相を含む東京裁判の
A級戦犯14人が「昭和受難者」として合祀(ごうし)されたからである(←(あ))。
天皇の赤子である日本国民を、無残にも空襲や原爆の餌食にさせる米英との戦争に、
突き進ませた責任のあるA級戦犯14人が祭られている靖国神社に、昭和天皇は参拝する
ことが我慢できないのである(→(い))。
(あ)【 時事ドットコム
歴代首相の靖国神社参拝 写真特集
https://www.jiji.com/jc/d4?p=pmy815-jpp01052532&d=d4_pol
1978年10月、処刑された東条英機元首相を含む東京裁判のA級戦犯14人が
「昭和受難者」として合祀(ごうし)されたが、世間に公表されることはなかった。
A級戦犯の合祀(ごうし)が判明した1979年4月以降も大平正芳、鈴木善幸、
中曽根康弘各首相が例大祭などに合わせて参拝したが、戦後40年に当たる85年
8月15日に中曽根氏が「公式参拝」するまで、外交問題化することはなかった。
橋本龍太郎首相は1996年7月29日に電撃的に靖国神社を参拝した。中曽根康弘
首相の公式参拝が外交問題化して以降、参拝を公にしなかった宮沢喜一氏を除いて、
首相の靖国神社参拝は途絶えていた。この日は橋本氏の誕生日。
2001年8月13日午後4時半ごろ、東京・九段北の靖国神社に到着した小泉純一郎
首相(中央)。自民党総裁選で「終戦記念日の参拝」を公約した小泉氏だったが、中韓
両国の反発と、これに配慮する政権内の意見に押されて前倒しした。これ以降、在任中に
年1回の参拝を続け、06年は公約通り8月15日に参拝した。
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【 日本経済新聞 2013年12月26日
安倍首相、靖国を参拝 現職で小泉氏以来7年ぶり
https://www.nikkei.com/article/DGXNASFS2601B_W3A221C1MM0000/
安倍晋三首相は就任から1年にあたる26日午前、東京・九段北の靖国神社を参拝
した。安倍氏の首相在任時の参拝は第1次政権も含めて初めて(後略)。
Nikkei Inc.No reproduction without permission. 】
→(い)そんな昭和天皇のお気持を踏み躙って、A級戦犯合祀された以降も、大平、
鈴木、中曽根、小泉、安倍が靖国神社に参拝している。
国民は天皇の赤子の昭和天皇と違って、彼奴等にとって、国民は国家の為に死んで当然
だと思っているのだろう?
昭和天皇のお気持に立てば、総理就任の暁には靖国参拝をすると公言している高市早苗
は総理には相応しくない人物である。
何時に成ったら、天皇を敬う振りをしながら、天皇を馬鹿にする薩長の思想から
解き放たれるのだろうか?
1978年10月、東京裁判のA級戦犯14人が合祀(ごうし)されたからである。
1978年に合祀されたから1975年に参拝を止められた???
>> 50年11月を最後に中断されたのは、同年8月15日の三木武夫首相の参拝が(それ以前にも歴代首相が繰り返し参拝していたにも拘らず)急に、
憲法の政教分離原則に違反する、として政治問題化し、それが天皇陛下のご親拝にまで“飛び火”してしまったからです。
>>もちろん、そうした憲法解釈は間違っています。ですが、“国民統合の象徴”としてのお立場に照らして、政治論争が続いている以上、ご自身のお気持ちとは関わりなく、ご親拝は行えなくなってしまったのです」と。
https://www.a-takamori.com/post/190821
我々は未来から神の視点で昭和を見れるからあーだこーだ言えるに過ぎない。
ベストを尽くした!
いっぱい足搔いた!
↑
昭和天皇と英霊と臣民と、これ以外にあるのか?
足搔いたからこその今である。
天は自らを助ける者を助けると言う。
何十年か越しに努力が実った。本当に感謝しかない。
自堕落な負け犬はチャンコロやチョンの方なんじゃねーの?
習近平に至っては漢民族に何十年か越しのツケや呪いの類い(過剰債務、生産能力過剰、米中対立)を逆に残してるしな!笑
● 日本の戦略的目論見
第二次世界大戦中、日本が米豪連絡線の遮断やガダルカナルの戦いに執着したのは、オーストラリア攻略を目的としていたからでした。戦後、日本は欧州戦争と太平洋戦争を切り離し、自存自衛の戦争だったことを強調するために、ニューギニアなどオーストラリア方面での戦いを「オーストラリア方面からの反抗を抑える目的」として説明して誤魔化しています。しかし、実際には全く異なる意図が存在していました。
● ドイツ勝利に便乗した世界新秩序の構築
日本の当初の目論見は、ドイツの勝利に便乗して新たな世界秩序を作ることでした。日本は独ソ戦が間もなく終結し、ロンメル軍団が中東を征服、その後ドイツがイギリス本土に上陸して、最終的にイギリスが敗北すると考えていました。これにより、日本は南方のみならずシンガポール、オーストラリアをイギリスから奪取し、その拠点として事前にフィリピンを確保する計画を立てて、それを開戦と共に実行に移したのです。
● 戦後に隠蔽された太平洋戦争の実際の意図
戦後、日本は欧州戦争と太平洋戦争を切り離し、自存自衛の戦争として位置づけることで、自衛戦争としての正当性を主張してきました。しかし、当初の計画では、英ソが早期にドイツに敗北すると考え、それに便乗して日本がフィリピン、オーストラリア、シンガポールを奪取することが目標であり、これが実現した後、残されたアメリカと早期に講和するという見通しだったのです。
■ 戦争の予想と実際の結果
● 戦争の予測の難しさ
戦争がどのように展開するかは予想が非常に難しいです。例えば、現代のロシアとウクライナの戦争において、ロシアは短期間で戦争を終わらせることを計画して侵攻を開始しましたが、実際には長期戦となり、予測は大きく外れました。さらに、欧州やアメリカのウクライナ支援と共に、ロシアへ経済封鎖が行われると、今度はロシアが経済的に持ちこたえられず数か月で敗北するという予測もなされました。しかし、これも大きく外れ、戦争は今も未だ続いているのです。第二次世界大戦での日本政府や軍部の判断も、これと全く同じような予測の失敗に翻弄されたのです。
● 太平洋戦争における日本の予測の誤り
太平洋戦争の開戦時において、日本の指導部は第二次世界大戦の帰趨に関して大きく予測を誤り、ドイツ早期勝利の見込みや、アメリカの戦意の軽視に依存した長期戦略を立てていました。しかし実際には、ドイツ軍はソ連に苦戦し、更には、アメリカ軍が太平洋で早期に大規模な反抗に乗り出すなど、日本の目論見はことごとく外れてしまいました。この予測の誤りが、日本の敗戦の真実なのです。
■ 結論
日本が米豪連絡線の遮断やガダルカナルの戦いに執着したのは、当時の日本指導部にオーストラリア攻略の計画があったからでした。戦後、日本は戦争の正当性を主張するため、自存自衛の戦争として太平洋戦争を見せかけ、オーストラリア攻略の意図を隠蔽してきましたが、実際にはドイツの勝利に便乗して新たな世界秩序を築こうとする壮大な目論見が存在していました。結局の所、戦争の予測は非常に難しく、結果として日本の指導部が多くの誤りを犯したことが、先の大戦における日本の敗戦の根本原因なのです。このような歴史的事実を正確に理解し、過去の過ちから学ぶことが重要です。戦争は絶対に起こしてはいけないものです。それは、誰の考えた通りにもならないものだからです。
(参考資料)
<二段作戦の研究では、山口多聞少将から提案があり、その内容は、5月にインド要地を占領、7月にフィジー、サモア、ニューカレドニアおよびニュージーランド、オーストラリア要地を占領、8、9月にアリューシャンを占領、11、12月にミッドウェー、ジョンストン、パルミラを占領。12月、1943年(昭和18年)1月にハワイを占領。その後パナマ運河を破壊し、カリフォルニア州油田地帯を占領、北米全域爆撃という計画であった[13]。>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AE%B5%E4%BD%9C%E6%88%A6
<日下公人が瀬島龍三に開戦前夜の大本営について質問した。1941年11月26日にハル・ノートが出た頃、ドイツ軍の進撃がモスクワの前面50kmで停止し、大本営は「冬が明けて来年春になれば、また攻撃再開でモスクワは落ちる。」と考えていた。「本当に大本営はそう思っていたんですか?」と瀬島龍三に尋ねると「思っていた。」と。続けて「もしもドイツがこれでストップだと判断したら、それでも日本は12月8日の開戦をやりましたか?」と尋ねると、「日下さん、絶対そんなことはありません。私はあのとき、大本営の参謀本部の作戦課にいたけれど、ドイツの勝利が前提でみんな浮き足立ったのであって、ドイツ・ストップと聞いたなら全員『やめ』です。それでも日本だけやるという人なんかいません。その空気は、私はよく知っています。」と答えた。[小室直樹・日下公人著「大東亜戦争、こうすれば勝てた」p.195-196]>
[太平洋戦争] 日本軍によるオーストラリア・ダーウィンの空爆(AIカラー)| 昭和17年
https://www.youtube.com/watch?v=6sfvaFUM6Yg
Australia (2008) Trailer 4K | Upscaled Trailers
https://www.youtube.com/watch?v=SL4zOqzk4as
『 1978年に合祀されたから1975年に参拝を止められた?(→(A))
>>昭和天皇が、1975(昭和50)年を最後に、靖国神社を参拝しなくなったのは、
1978年10月、東京裁判のA級戦犯14人が合祀(ごうし)されたからである(→(B))。
1978年に合祀されたから1975年に参拝を止められた???(→(A))
>> 50年11月を最後に中断されたのは、同年8月15日の三木武夫首相の参拝が
(それ以前にも歴代首相が繰り返し参拝していたにも拘らず)急に、
憲法の政教分離原則に違反する、として政治問題化し、それが天皇陛下のご親拝に
まで“飛び火”してしまったからです(→(C))。
もちろん、そうした憲法解釈は間違っています。ですが、“国民統合の象徴”としての
お立場に照らして、政治論争が続いている以上、ご自身のお気持ちとは関わりなく、
ご親拝は行えなくなってしまったのです」と(→(D))。
https://www.a-takamori.com/post/190821
2025/04/29(火) 17:04:31 | URL | ジョン・ライダー 』
→(B)1975(昭和50)年を最後に、靖国神社を参拝しなくなったとは
→ 1975(昭和50)年には昭和天皇は靖国神社を参拝したということ!
→(A)1978年に合祀されたから1975年に参拝を止められた?
(B)の1975(昭和50)年には昭和天皇は靖国神社を参拝したという事実と
貴方が誤解により捏造した偽事実(A)の1978年に合祀されたから1975年に参拝を
止められた、は矛盾するでしょう?
勝手に事実を捏造するのは止めなさい!
→(C)全然理由になっていません!
天皇が靖国に参拝することが、政教分離原則に違反するならば、内閣総理大臣が
靖国参拝することも、政教分離原則に違反するでしょう。
→(D)“国民統合の象徴”の昭和天皇が靖国神社参拝を取り止めになっているのに、
国民の象徴に反して、国民が直接選んだ訳でもない総理が勝手に参拝したら駄目だろ!
なったのは、1978年10月、処刑された東条英機元首相を含む東京裁判の
A級戦犯14人が「昭和受難者」として合祀(ごうし)されたからである(←(あ))。
2025/04/2916:36 by 三角四角
三角は自分のコメントさえ覚えてないのか?
>>天皇が靖国に参拝することが、政教分離原則に違反するならば、内閣総理大臣が
靖国参拝することも、政教分離原則に違反するでしょう。
2025/04/2920:23 by 三角四角
>> 50年11月を最後に中断されたのは、同年8月15日の三木武夫首相の参拝が(それ以前にも歴代首相が繰り返し参拝していたにも拘らず)急に、
憲法の政教分離原則に違反する、として政治問題化し、それが天皇陛下のご親拝にまで“飛び火”してしまったからです。
https://www.a-takamori.com/post/190821
総理大臣の参拝が問題になったから昭和天皇もご親拝を控えられるようになった。
総理大臣の参拝問題が先にある。
https://news.yahoo.co.jp/articles/d54430899227e66ceb72f03fa50d656dff3e5a42
【速報】日比首脳が対中国念頭に安保協力強化で一致 物品協定の交渉入り合意 トランプ関税についても意見交換「よりよい解決目指す」
https://news.yahoo.co.jp/articles/436878c3ca1b579edf2096ea5a8336ad894ac8cf
日本政府こそが責任感を持つべき...「産業化」した東南アジア特殊詐欺を「根絶」できない理由
https://news.yahoo.co.jp/articles/5562cb9fd04f6eaa36e203f71fed428fbc2d2530
結婚生活に不満、それでも男性が女性よりも離婚を切り出さないわけは 心理学者が解説
https://news.yahoo.co.jp/articles/c4eb821c1f2d48c22f47860df18027d5a3124d46
「7万円台の結婚式」「平日チャペルでイベント」…苦境のブライダル業界が生き残りをかけて改革へ
https://news.yahoo.co.jp/articles/523796c3ca7aca68c21436282b3d39356f715d5f
チャットGPTでデザイン作成5日→半日 福島の企業「元に戻れぬ」
https://news.yahoo.co.jp/articles/c7a3c4b60d239bc81b79aee57a677c348740c223
マスク氏「手術ロボット、5年内に最高外科医を凌駕するだろう」主張
https://news.yahoo.co.jp/articles/acbdbe5c677d6c5a708d9fcd42a3ef85b8344288
お前、馬鹿だろ。
違うよ。
お前は日経新聞の「富田メモ」報道を真に受けているのかもしれないが、日経新聞が全てのメモを公開していないことからも判るように、「富田メモ」報道はプロパガンダに過ぎない。
日経新聞は、御厨貴、秦郁彦、保坂正康、半藤一利、丸谷才一ら、もともとA級戦犯に否定的な連中などにしかメモの全てを見せていない。
日経新聞は、天皇陛下ご親拝中止の原因が元A級戦犯合祀だとする見解に疑問を抱く高森明勅、大原康男、渡部昇一、櫻井よしこ、百地章、岡崎久彦や一般国民にはメモの全てを見せずに隠蔽し続けている。
2006年7月に大々的に報道された「富田メモ」の1988年4月28日の最重要部分(私は 或る時に、A級が合祀され その上 松岡、白取までもが、 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と 松平は平和に強い考えがあったと思うのに 親の心子知らずと思っている)は、昭和天皇のお言葉ではなく、元侍従長の徳川義寛が常々話していたことだ。
https://www.youtube.com/watch?v=k1oZK0aqqYY
http://deliciousicecoffee.jp/blog-entry-9689.html
>いずれにしても、陛下は殺される運命にあったのです。
だからね、天皇を利用した間接統治という方針が決まっていたわけだから、天皇を殺害するという選択肢は無かったわけ。
_______________________________________________________________
1 天皇及び日本政府の国家統治の権限は,連合国最高司令官としての貴官に従属する。貴官は,貴官の使命を実行するため貴官が適当と認めるところに従って貴官の権限を行使する。われわれと日本との関係は,契約的基礎の上に立つているのではなく,無条件降伏を基礎とするものである。貴官の権限は最高であるから,貴官は,その範囲に関しては日本側からのいかなる異論をも受け付けない。
https://worldjpn.net/documents/texts/JPUS/19450906.O1J.html
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降伏実施に行動が必要な場合には、貴官は、当初から直接に行動する権利を有する。それ以外には、天皇又は他の日本当局が有効に行動することを欲しないか又は有効に行動しないときに直接行動を執る最高司令官としての貴官の権利を常に留保して、貴官は、貴官の最高権限を天皇と中央及び地方における日本政府機構とを通じて行使する。・・・
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/036/036jtx.html
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【天皇は大資本家】
https://ewkefc.blog.fc2.com/blog-entry-108.html
https://ameblo.jp/showhizeigenzei/entry-12898596356.html
令和7年3月の石破茂内閣の支持率比較の続きになる。グーブログから引っ越ししているからURLを変えなければならないのだが、面倒なのでしばらくはそのままだ。

