■冨田メモの徹底検証
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補説1 靖国問題と元「A級戦犯」合祀の経緯
(2)元「A級戦犯」の合祀の経緯
(前回の続き)
昭和27年4月28日にわが国が独立を回復した後、靖国神社に本来の公的性格を回復すべきだという議論が起こった。これが靖国神社国家護持運動である。この運動は昭和40年代には一段と活発になった。
GHQに押し付けられた憲法を放置した状態のままで、昭和44年から49年まで、国会で靖国神社の国家護持が議論された。昭和45年には、わずか数ヶ月で2000万人もの国家護持要求の署名が集まった。国会では、自民党が中心となって靖国神社国家護持法案が6回も提出された。
しかし、自民党自体がもう一つ法案成立に熱心ではなく、しばしば野党との交渉の道具にされた。
最大の問題は、法案の中身だった。それは現行憲法の元で、その政教分離規定を狭く解釈し、靖国神社を伝統とは異なるものに変えてしまう内容となっていた。これに対し、靖国神社側から反対が起こった。靖国神社という名称、神道による祭儀、鳥居などの形状は、現状のまま保ちたいというのが、反対の理由である。
結局、同法案は廃案となり、運動は挫折した。
その後、昭和50年8月8月15日に三木武夫首相が靖国神社に参拝する際、「私人」としての参拝であると表明した。これによって、憲法問題が生じた。
三木の私人表明まで、靖国参拝と現行憲法・東京裁判の間にある問題は、明確には浮かび上がっていなかった。天皇も歴代首相も、当然のこととして靖国に参拝していた。ところが、ここに戦後のわが国の根本問題が浮かびあがった。
同じ50年の11月21日、昭和天皇が靖国神社の秋の例大祭に参拝された。その前日、参議院内閣委員会で日本社会党がこれを問題にした。追及を受けた吉国一郎内閣法制局長官は、天皇のご親拝は、「憲法第20条第3項の重大な問題になるという考え方である」と答えた。この答弁によって、天皇のご親拝が憲法問題になってしまった。同項は「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と定めている。
この条項の解釈の問題が解決しないと、天皇のご親拝は政治問題となる事態となった。それ以来、ご親拝は途絶えている。天皇がご親拝されなくなった決定的な原因が、この点にあることは明らかである。
今回の富田メモがたとえいかなる性格のものであったとしても、これは変わらない。
憲法問題に触れずに、いわゆる「A級戦犯」の合祀に焦点を絞った報道は、全体を見失っていると思う。あるいは国民に全体像を見せずに、一定の方向に国民の意識を操作しようという意図があるのではないか、と私は見ている。
いわゆる「A級戦犯」が靖国神社に合祀されたのは、首相の参拝、さらには天皇のご親拝が憲法問題となった昭和50年より3年後の昭和53年(1978)のことである。この年の3月、筑波宮司が急逝した。
7月1日に松平永芳氏が宮司に就任した。宮司の選任は、総代会に権限がある。松平宮司は就任後、元「A級戦犯」の合祀は「時期は宮司預かり」となっていることを知り、合祀の実行を考えた。 総代会は、元「A級戦犯」の合祀を行なうことを再度確認した。そのうえで、元「A級戦犯」の合祀が進められた。松平の独断ではない。
松平宮司は、合祀者名簿を作り、権宮司らが10月7日に上奏簿を宮内庁に届けた。そのうえで10月17日に、元「A級戦犯」の合祀を実行した。翌日の例大祭の宮司挨拶で、合祀を行なったことを述べた。
このあたりの詳細は、第7章の(4)以下に書いたので、ここでは省略する。
翌年4月に元「A級戦犯」が合祀されたことが、報道された。国民の間にいろいろな意見はあったが、大きな問題にはならなかった。大平首相・鈴木首相は参拝を続けた。
大きな問題になったのは、三木首相以来生じた憲法上の問題を解決しようとした中曽根首相が、昭和60年に公式参拝をしたことに対し、中国政府が抗議したことによる。中国は、合祀報道からこの時まで、約6年間何も言っていなかった。60年に初めて大きな問題となった。
このとき元「A級戦犯」の遺族の中から合祀の取り下げを申し出る動きがあった。しかし、東条家と松平宮司が反対し、遺族はまとまらなかった。
中曽根氏は、中国の抗議に態度を翻し、公式参拝をやめた。一国の最高指導者が、外国の内政干渉に屈したのである。首相が公式参拝をしないという状態となるや、天皇のご親拝は、ますます遠のいた。靖国ご親拝に関する憲法問題が、真に決定的な原因となった時期は、この時だと思う。
富田メモの政治利用は、このことを覆い隠すものともなる。
中曽根氏が首相として公式参拝を継続していれば、憲法上の問題は一応の解決に至り、天皇のご親拝はやがて再開されただろう。外国の内政干渉を許さなければ、すべての「戦争による公務死者」の合祀は国民に定着していっただろうと私は思う。それは、死者に鞭打つことをしない日本人の心情にかなっているからである。
ここで仮に富田メモが、昭和天皇のご意思を直接または間接に伝えるものだとしよう。まだ検証が不十分な段階ゆえ、仮の話として述べる。
もし昭和天皇が靖国ご親拝をされなくなった原因に、「A級戦犯」の合祀、特に松岡・白鳥の合祀や、松平宮司による合祀の進め方が関係していたとしても、それらはご親拝中止の決定的な原因にはなり得ない。副次的な原因とみるべきである。
昭和天皇が「A級戦犯」・松岡・白鳥の合祀について何か述べられたことがあったとしても、それは私的な感慨を漏らされたものにすぎない。
合祀後も毎年、昭和天皇は、靖国神社の春秋の例大祭には、勅使を差し遣された。元「A級戦犯」が合祀されている社に、奉幣を行われていた。現在も続けられている。それは、政治的に大きく問題化していないからだろう。
だから、天皇のご親拝が中止されている決定的な原因は、政治の問題であり、その核心は憲法の問題なのである。私はこのように考えている。
■冨田メモの徹底検証
完
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