- キリスト教信徒が励まし合う場所 [転載禁止]©2ch.net
349 :老クリスチャン[]:2016/05/13(金) 10:23:41.33 ID:AhNskAzQ - 2004年(主日C年) 5月30日 聖霊降臨の主日
使 2:1〜11 ロマ 8:8〜17 ヨハ 14:15-16,23-26 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 わたしは父にお願いしよう。 父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(ヨハ vv.15-16) ヨハネ文書に独特な 「掟を守る」 という表現は、イエス・キリストの霊である聖霊によって導かれて育って行った初代教会の姿を、現代のキリスト者である私たちに描写して見せてくれます。 それは 「互いに愛し合う」(ヨハ 13:34 他) ことであり、共にミサをささげるために結束している信仰集団の姿でありました。 キリストの贖罪のいけにえを記念するミサこそが、この集団の唯一の結束の源泉であったことを、私たちは聖書から読み取ることが出来ます。 聖霊はそのような教会を生み出し、育て、守る弁護者として、イエス・キリストが父のもとから遣わされたのであり、歴史の教会はこの同じ聖霊によって今日に至るまで守られて来ました。 そのような訳で、聖霊降臨の主日は、教会が神の霊、キリストの霊の支配を再確認し、これ以外のこの世の霊や時代の霊からの誘惑や挑戦を退ける決意を新たにすべき祭日であります。 この使徒言行録からの朗読箇所の中で、最も大切な部分は次のところです。 「(いろんな国から来た者たちがいるのに)、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」(使 v.11) この日使徒たち一同に聖霊が降ると、多くの国の人々はそれぞれ自分たちの国の言葉で使徒たちから福音を聞くことが出来ました。 聖霊が使徒たちの宣教を人々に聞かせ、かつ理解させたのでした。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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- 十十十 カトリック243 十十十 [無断転載禁止]©3ch.net [無断転載禁止]©2ch.net
728 :老クリスチャン[]:2016/05/13(金) 10:26:12.39 ID:AhNskAzQ - 2001年(主日C年) 6月3日 聖霊降臨の主日
使 2:1〜11 ロマ 8:8〜17 ヨハ 14:15〜26 「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。 キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。」(ロマ v.9) 復活された主イエス・キリストが父のもとから聖霊を送ってくださって、神の国の相続人である教会が地上に誕生しました。 聖霊は父なる神の霊です。 そしてそれは同時にキリストの霊であって、すべて福音を信じて洗礼の秘跡を受けた人を神の国の相続人として新しく生まれさせてくださいました。 「神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です」(ロマ v.17) とあるとおりです。 聖霊は私たちキリスト教会と共にいてくださって、私たちのミサを通し、特に秘跡を通して救いの恵みを与えてくださいます。 「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」(ロマ v.14)。 しかし 「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。」(ロマ v.9) ここで 「肉」 という用語の解説をしておきましょう。 聖書において 「肉」 とは、人間に属する "すべて" を包括する概念です。 これは聖書の世界に独特なヘブライ的な概念であります。 西欧文明の中で育った人々は、人間は肉体と精神 (魂) とから成り立っているというふうに考えます。 ところがヘブライ的な概念では人間は 「肉」 と 「霊」 が一つになって生きているものなのです。 ヘブライ的な概念で言う 「霊」 は神から出て人間に宿っている "命の息" であって、神がこの 「霊」 を取り去られると人は塵に帰ります(創 2:7、詩 104:29、コヘ 12:7)。 ですから 「肉」 とは人間の肉体も、精神や心情も、すべてを包括した総称なのです。 キリストの霊が宿っている人は、キリストの霊に導かれて信仰の人生を歩みます。 それと対比してキリストの霊を持たない人 (教会に属さない人) が 「肉 (の人)」 であり、キリストの霊によって導かれない人が 「肉に従って生きる」(ロマ vv.12-13) のです。 洗礼の秘跡によって聖霊を受けるということは、私たちが救われるか否かにとって決定的な事柄なのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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- 【聖書と信仰】信者も未信者も 【神学と哲学
397 :老クリスチャン[]:2016/05/13(金) 10:29:49.94 ID:AhNskAzQ - 2004年(主日C年) 5月30日 聖霊降臨の主日
使 2:1〜11 ロマ 8:8〜17 ヨハ 14:15-16,23-26 「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。 キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。」(ロマ v.9) 「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」(ロマ v.14) 聖霊を受けるためには、洗礼が必要であると、教会は教えて来ました(使 2:38 参照)。 「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して (すなわち洗礼を受けて) 救われる」(ロマ 10:10) という主張は、現代の教会が使徒継承によって受け継いで来た真理であります(教会憲章 14)。 洗礼を受けるには先ず信仰が必要です。 そして信仰はキリストの福音を聞くことによって始まります(ロマ 10:17)。 ですから、現代の教会が聖霊の賜物によって豊かにされるには、何よりもキリストの福音が、使徒たちが伝えた通りに、再び生き生きと宣教される必要があります。 聖伝と聖書によって伝えられて来た福音は、神の霊によって導かれる教会こそが御国を受け継ぐ 「キリストと共同の相続人」(ロマ v.17) であると宣言しています。 現代の教会はすでに久しく使徒たちの宣教とは無縁になり、十字架のキリストの福音は 「ほかの福音」(ガラ 1:7) に場所を譲って、聖霊の支配ではなくて肉の支配が実権を奪ったかのような状態の中にあります。 1530年にプロテスタント側で起草された 「アウグスブルク信仰告白」 は、教会を定義して、「福音が純粋に説教され、キリストのいけにえの奉献が (その語られた) 福音に従って正しく執行される」 と述べたことは、有名な話です。 現代の教会がどんなに悲惨な状態の中にあるとしても、それでもキリストの霊である聖霊が私たちを訪れてくださるのは、ことばの典礼と感謝の典礼を通してであることを、私たちは見失ってはなりません。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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- ルーテル教会
890 :老クリスチャン[]:2016/05/13(金) 10:33:28.47 ID:AhNskAzQ - 2001年(主日C年) 6月3日 聖霊降臨の主日
使 2:1〜11 ロマ 8:8〜17 ヨハ 14:15〜26 ユダヤ教の五旬祭の日がキリスト教の聖霊降臨祭の日になった起源の物語りで、特に強調されていることがあります。 それは聖霊は洗礼の秘跡によって人々がこれを受ける以前に、先ず使徒たちに降り、使徒たちをキリストの福音の証人また宣教者としたということです。 使 v.1, v.4 の 「一同」 とは、この物語りでは明らかに 「使徒たち」(使 v.6) のことを指しています。 使 vv.5-11 の人々の驚きとは、この聖霊を受けた使徒たちの宣教を "理解することが出来た" という驚きでした。 使徒たちとその他の働き人たちの宣教を聖霊が用いて、人々にキリストの福音を理解させてくださったので、信じた人々は洗礼の秘跡によって聖霊を受けることになったのでした。 ですから現代の私たちの教会も、使徒継承によって代々に亙って受け継がれて来た福音の宣教を聞くことによって、真の教会であり続けることが出来るのです。 使徒継承というのは、聖伝と聖書によって教会に受け継がれて来ていて、両者ともミサと固く結びついています。 主イエス・キリストが教会に託された御自分の死と復活の記念祭儀であるミサの中で、「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハ v.26) のです。 「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。 わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところに行き、一緒に住む」(ヨハ v.23) という主の言葉は、ミサのことを指しています。 聖霊の賜物と働きは、ミサと切り離して考えることは出来ません。 私たちがミサを大切にし、ミサを良いものにするための一同の奉仕によって、21世紀の教会を真の教会に造り上げて行くようにとの呼びかけが、今朝の朗読聖書から聞こえて来るではありませんか。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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- 十十十 カトリック243 十十十 [無断転載禁止]©3ch.net [無断転載禁止]©2ch.net
729 :老クリスチャン[]:2016/05/13(金) 10:39:47.68 ID:AhNskAzQ - 2007年(主日C年) 5月27日 聖霊降臨の主日
使 2:1〜11 ロマ 8:8〜17 ヨハ 14:15-16,23-26 「わたしの言葉」(ヨハ vv.23,24) とは、キリストの福音全体のことであって、決してある特定の教えや戒めのことではありません(ヨハ 5:24, 12:48 参照)。 今日に至るまで代々の時代の教会は、使徒たちの宣教を通してこの福音を聞いて来ました。 聖霊がすべてのことを教え、キリストの福音を理解させてくださるという約束は、使徒たち自身の体験であっただけでなく、さらに "使徒たちが伝えたキリストの福音" の宣教が受け継がれて行った使徒後の教会の体験でもありました。 教会で福音が宣教されること、会衆がこれを 「神の言葉として受け入れる」(Iテサ 2:13) ことが起こっているなら、それは聖霊の働きによるのです。 この福音を聞き、共に福音に与って、御国を受け継ぐために、主は 「互いに愛し合いなさい」 という 「わたしの掟」(ヨハ v.15) をお与えになりました。 ところが現代の多くのキリスト者の偽らざる実感は、"聖霊が分からない" というものです。 そんな私たちにとって、"教会で、ミサの説教で、使徒たちが伝えたキリストの福音を聞かされたことがない" というのが、久しく実態でありました。 あたかも分かり切ったことのように "福音" とか "教" という言葉が使われており、しかもだれ一人として "使徒たちが伝えたキリストの福音" を知らないのです。 現代のキリスト者は、「主の言葉を聞くことの出来ぬ飢えと渇き」(アモ 8:11) の中で、瀕死の状態の中にいるのです。 しかし教会は、今も使徒継承によって、確かに聖伝と聖書を受け継いでいるのです。 全世界のカトリック教会の自覚ある信者が、一人一人自ら "再び聖伝と聖書によって福音を学ぶ" ことだけが、真の解決への道であることを知りましょう。 だれでも諸信条や各種カトリック儀式書、そして公会議文書を学べば聖伝に触れることが出来ますし、聖書を自ら読んで使徒たちの宣教に耳を傾けることは容易なことです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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