Location via proxy:   [ UP ]  
[Report a bug]   [Manage cookies]                

【井出明のダークツーリズムで歩く 北陸の近現代】(15)富山大五福キャンパス

2022年9月3日 05時05分 (9月3日 10時56分更新)
太平洋戦争末期、本土決戦に備えて旧陸軍が編成した機動兵団歩兵第514連隊のモニュメント=富山市の富山大五福キャンパスで

太平洋戦争末期、本土決戦に備えて旧陸軍が編成した機動兵団歩兵第514連隊のモニュメント=富山市の富山大五福キャンパスで

  • 太平洋戦争末期、本土決戦に備えて旧陸軍が編成した機動兵団歩兵第514連隊のモニュメント=富山市の富山大五福キャンパスで

失われた若い命 戦争の記憶

 大学と太平洋戦争の関わり方は多様である。学徒出陣のように、悲劇の記憶として刻まれているケースもあれば、兵器研究に学者が積極的に協力し、戦後になって反省を迫られた事案も数多く残っている。普段なかなか意識しない大学と戦争の接点として、今回のコラムでは、軍用地の跡地利用という観点からその関係性を考えてみたい。

「かつて軍用地だった」

 太平洋戦争が終わり、軍隊が解散という段になると、これまで有していた広大な土地をどう活用すべきかという論点が浮かび上がってきた。もちろん、旧満州(中国東北部)や朝鮮半島から引き揚げてくる同胞もいたため、住宅建設に使われた場所も多かったのであるが、大学に転用された例もかなりある。
 川崎市にある明治大学の生田キャンパスは、かつて旧陸軍登戸研究所があったところであるし、岡山大学は陸軍第一七師団の用地を転用している。
 北陸でもこうした現象は見られる。私が奉職する金沢大学も山間部に移転する以前は「お城の中の大学」と言われ、現在の金沢城公園の中に位置していたのだが、この場所自体、近代においては旧陸軍の管理下にあったわけで「軍事遺構の中の大学」と呼んだとしても、誤りとは言えない。
 お隣とも言える富山大学五福キャンパスは、もともと陸軍の歩兵第三五連隊が置かれていたところで、後に関東軍参謀、戦後は伊藤忠商事の会長も務めた瀬島龍三も一時期ここに詰めていた。彼の揮毫(きごう)による石碑が一九七八年に設置されている。
 戦争末期になると、軍部は本土決戦を覚悟し、機動力のある新しい部隊の編成も行った。富山には、第五一四連隊が編成され敵に備えることになった。この部隊は、中隊長並びに将校クラスが三十歳以下であるとともに、主力兵も十九歳から二十歳の若者であった点が特徴的だった。まさに富山大学で学ぶ学生たちと年代的に重なるのであるが、四五年八月一日深夜から二日未明にかけての富山大空襲では、二十五人が命を失っている。こちらに関連したモニュメントは、二〇一五年につくられた比較的新しいものであり、碑文によれば連隊が編成されて七十周年となる日に設置となった。
 太平洋戦争が終わって七十七年となり、戦争の記憶の承継は一段と難しくなっている。しかし、ここ富山大学では構内でも人通りの多いエリアに戦争を伝えるモニュメントが複数設置されているため、行き交う人々も折りに触れ先の大戦を意識するのではないだろうか。そして、若い命が失われたという事実は、現役の学生たちも重く受け止めるであろう。学生たちの明るい笑い声が響くキャンパスにも、悲劇の記憶は存在している。(いで・あきら=金沢大国際基幹教育院准教授)

関連キーワード

おすすめ情報

北陸文化の新着

記事一覧