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【教えてくん】コミュニティーなのです。

なんかニュースとかあったらここに書こうかと思ってますよ。とりあえず、おいらのブログ

 

北野映画は世界を変えたのか : イロハニホヘドツブヤクド

イロハニホヘドツブヤクド ([info]イロハニホヘドツブヤクド) 投稿者,
@ 2013-04-19 22:42:00


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現在のヒトコト: 日の丸ってそういう意味では奥深いよねー

北野映画は世界を変えたのか
ドワンゴさんの「ナウシカは世界を救えたのか」に対抗して
考えた訳です、少ーし。

ナウシカが女子どもの世界観であるのに対し、
北野映画の真骨頂「ふっぁっきんじゃっぷぐらい分かるよばか野郎」
の映画はですね、圧倒的な男性の視点です。
この「馬鹿にすんじゃねぇ」というのは、女子どもには無理です。
鎖国でしたら、おんな子どもの世界観でもなんとかなった面もあったかもしれません。
しかし、この広い大海原を出ていくという世界観では、
ある種とがった「馬鹿にすんじゃねぇ」というものが必要になってまいりまして、
長州というゆるい連帯感は攘夷、開国、日中戦争、太平洋戦争へと至りました。

なぜ「馬鹿にすんじゃねぇ」と言わねばならぬのか。

古来より新たな価値観の名の下、
様々なものがこの地へ伝来し、
真意の定かでないものも、もれなく素性の分からぬ伝道師によって伝えられ、
争いと熱狂と寝覚めと悟りを繰り返して参りました。

「馬鹿にすんじゃねぇ」とは、誰にでも言えますが、
誰を相手にしても言えず、誰にでも言えません。
それが言葉の壁かもしれませんし、言葉の限界なのかも知れません。

であるから、北野映画には銃という飛び道具が頻繁に出て参ります。
それが「法」の限界であることを物語ります。

世界中が北野映画に観た普遍性とは、
「法」との境にある、世界観であったかも知れません。
それはまさに、「法」を求め「法」にしばられて来た
日本の中にあり、境の狂気であったかも知れません。
そうして日本の持つある種の「法」の境を体現させた世界観を、
世界は観たのです。

「法」を形づくる法の境と境とが継ぎ合わさり、ある種の丸みを帯びるという象徴が、
この地球という物体だとするならば、
北野映画は、日本の「法」の境を映画という
「法」の境にある文化にして魅せたことにより、
世界を変えたんではないだろうかと