では「主義」とは
まだ前日の「ネトウヨ」など「排外主義」の言い分に何か腑に落ちない点をあげますと、
何か「主義」というもので相手を屈服させる、
あるいは屈服させられる、というような観念に囚われている、
あるいは、何かこう「ハリケーン」や、「全米が泣いた」とか、「韓流」といった、
「主義」とは、何か覆い尽くすような「働き」だと、
過剰に反応してみせるようなところを感じます。
しかし、ひとたび多用な感覚を持てば、
恐らく皮肉ですけど、、「ご都合主義」とか、「自由主義」とか
「放任主義」とか、てきとーに何でも「主義」くっつけ「主義」を皮肉る言語感覚で
防御出来る筈です。
しかし、「共産主義」や、「北朝鮮民主主義」など、
はっきりと「主義」というものを標榜し、
「主義」の「義」とする「わく」を、
内外に示し営んでいる人々がございます。
しかし、やはり「主義」そのものをきらう傾向にある
我々は、「主義」そのものを茶化し防御して来たように思います。
なぜ「主義」をきらうのか
なぜ「主義」を広めるのか
「主義」とは、極論ですがひとえに、
憲法に定めるところの「思想」の自由に介入する
ところであります。
しかし、一方で、「主義」を歴史上
他者に押し付け、争うことで生存を獲得してきた
「征服者」である行動様式を無自覚に、
働かせてきた「主義」というものの働きを見逃してはおりません。
時代を違え、この「日本」の地に、「主義」の働きで彼らは、
様々な価値観でやっては来ましたが、布教と共に戦乱を巻き起こすトリガーであったことを見逃してはおりません。
戦後六十年余り、平和だったのは、
爪に火を灯すような苦労の血税で獲得した「日米安保」と、
「主義」の働きに懲りたからです。
しかし、「主義」の働きは、形を変え今後も「多用な価値観」との
争いごとの火種となるでしょう。
ゆえに、「歴史は繰り返す」とは、
「主義」のパターン様式に他ならない
事を、彼らは無自覚に、世襲してしまうのでしょう。
彼らは、時代を違え、「選べ」と要求します。
「あっち」か、「おれら」か、どっちか?
と、しかし、そもそも何かを選ぶというよりも、
「受け流す」という働きで対処して参った為、
その働きと流れを共にしてしまうよくも悪くもクセがございます。
「乗らなくては、このビッグウェーブに」
という、あの歴史的名言ですね。。
まさによくも悪くも本質を捉えております。。
ひろゆき氏って、ほんとうにすばらしいですね
(公開されているコメント)
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