LiveJournal for イロハニホヘドツブヤクド.
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| Monday, July 8th, 2013 |
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ゲド戦記からナウシカなど、ジブリの真骨頂「世界救う系」 ゲド戦記は、ジブリにおける世代交代劇を見せられた 格好のお披露目映画だった。 宮崎駿は宮崎吾郎を認めていないなど演出され、 ゲド戦記の読者として私は、 全く二つの異なる感情を持ち合わせ、このお披露目映画を見る事になる。 ナウシカは、ある小さな村から世界を救う女性を主人公にした話だった。 漫画本では、悩めるナウシカという姿がありながら、映画版では 決してぶれない女性の狂気が描かれ、思えばどちらの女性も世界を救うと信じて疑わない しかし実際は巨人兵というキャラが腐って崩壊し、 話の主題は何処かへ消えてしまったようだ。 これは何を意味するのか。 私たちは以来、火を強く怖がり恐れるようになったように思う。 ジブリは、反原発などと掲げているそうだが、 その実彼らの成れの果ては、2ちゃんねるのサーバーダウン行事や、 映画館興行収入争いなどに加え、原発の放射能を恐がるより、 火を恐れるあまり火力発電に大きな抵抗感をもたらしたのではないだろうか。 だいたい反原発などと掲げるなら大規模な映画配給業などという深い業を抱えておきなが ただちにやめないどころか、配給ペースを増やしているところに 戦後左翼の嘘っぱちがある。 なぜ進んで電気を消さぬ者が反原発などと嘘っぱちを平気で言って、 いけしゃあしゃあと映画を配給し、子ども達を騙し続けてファンタジーだなどと啓蒙して ゲド戦記からコクリコ坂 そして颯爽と配給に至り、日本から世界のゲド戦記ファンを巻き込んだ 一大非難ゴーゴー映画となったゲド戦記の話は、 ルグウィンがその広いふところを見せて、宮崎五郎のゲド戦記と認定した、 ジブリのゲド戦記となった。 恐らく、あのルグィン派のジブリ批判とは、日本人としての読解力を 疑われたくないという叫びが呼応したものだったのだろう。 そんな大問題の映画だったが、原作での虚無感を、父親ごろしの青年の虚無感のみに置き 悪い女性をやっつける話だった。 ここでも、ゲドという主題は綺麗サッパリ消え去っている。 ゲドという類まれなる感性が描かれる事が無ければ、 ルグィンのゲド戦記三巻の主題となる、 「均衡の防衛は「破壊」という行為では決して達成出来ない」 という核心も思いっきり無視された。 ならばゲド戦記などという題名はやめておけばいいのに、ルグィンが憤りの声明を世界に 皮肉なまがい物映画となった。 しかしそこは2代目宮崎吾朗のゲド戦記である これはあくまでジブリの世代交代劇に利用された舞台である。 すべては二代目が悪いのであって、ルグウィンの声明など無視しておけばいい、 というような劣化コピーのチープさに、非凡な輝きを見せたのが宮崎吾朗だったからジブ 宮崎吾朗のゲド戦記の虚無感は、むしろ日本的だった。 父親を失いなお、自らを責め罪悪感に蝕まれても、 飯さへ食えれば何とかなんべ。 そういう話だった。 三巻の主題である虚無との問答は、 ただの悪魔のささやきのような効果として利用されたが、 虚無との戦いに問答で追求していくプロセスを、 ただの暴力的破壊に置き換えて戦隊モノのようにしてしまっても、 爽やかな風が心を吹き抜けるように、 次作コクリコ坂への舞台の一幕に過ぎなかった。 コクリコ坂からへ 前作がひどかったので、大層ウケた。 震災で日本は悲しみに包まれており、 ふっと忘れてみたい衝動に駆られた人々の心をつかんだ。 実際私も、なーんの文句もないジブリ映画の一つだった。 相変わらず動きの悪い足下のアニメーションに対する違和感が発動したぐらいで。 つまりファンタジーなど、深く掘ろうが浅く掘ろうが、 圧倒的な現実の前では薄皮に過ぎなかったのだ。 ナウシカや、ラピュタの男女の思いも、コクリコ坂の思いも ファンタジーの中では、似たような重さだ。 それを私たちはまるで自らの世界がまさに失われそうな、まるでたいへんな思いで観賞す それによって経験値として蓄えたモノは一体何であったのだろう。 しかし東北の震災が起き、少なくとも私はこの国は一体今まで何をは恐れてきたのだろう 目の前の危機を見過ごし、全く見当違いなモノを恐れているんじゃないだろうか。 ならばファンタジーとは、現実から逃げる道でしかない。 そんな時間を、もっとより現実に目を向けていかなくてはならない。 そう思ったここ最近の二年間だった。 |
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