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    <title>内田樹の研究室</title>
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    <title>理事長から新任の挨拶</title>
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    <published>2026-05-20T01:32:28Z</published>
    <updated>2026-05-20T01:33:40Z</updated>

    <summary>　このたび図らずも理事長を拝命することになりました。まさか７５歳になって、ふたたびスーツを着て、ネクタイを締めて「出勤」...</summary>
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        <![CDATA[<p>　このたび図らずも理事長を拝命することになりました。まさか７５歳になって、ふたたびスーツを着て、ネクタイを締めて「出勤」する身になるとは思ってもいませんでした。<br />
　６０歳の時に早期退職させて頂いたのは、会議に出ることにうんざりしていたからでした。教務部長になった時に、課長から「出る会議のリスト」を渡されました。「いくつあるんですか？」と訊いたら「４７です」と言われて気が遠くなった覚えがあります。それから６年間「会議の人」として過ごし、さすがに「もう、だめ」となって退職したのでした。<br />
　退職した年、２０１１年秋に神戸市に凱風館という道場兼自宅を建てました。俗世から離れ、稽古と執筆に専念して涼しく余生を過ごすつもりでした。ところが、世情穏やかでなく、やむなく「学者の会」の旗を掲げて国会前で演説をしたり、ＳＥＡＬＤｓの若者たちとデモに行ったり、慨世の文を草するようになったり、気がつけば日々連載に追われ、年に何冊も本を出し、講演に飛び歩く「火宅の人」となり果てておりました。<br />
　加えて今般は理事長拝命という「青天の霹靂」的事態を迎えました。人生思い通りにはゆかないものです。でも、「こんなはずではなかった」と長嘆することにはもう慣れております。「これも天命」と思っておとなしくお引き受けすることに致しました。<br />
　２０代で起業して会社を経営し、転じて大学管理職となり、今は五人の書生を雇用する道場主ですので組織運営について多少の経験はあります。私が経験から学んだのは、組織は性善説に基づいて運営するのが最も効率的だということです。<br />
　組織の成員たちを「機会があれば権限を私的に用い、公共財を私腹に収めようとする人」とみなして性悪説で組織を運営すると膨大な管理コストを要します。でも、いくら厳密に管理しても、そこからは価値あるものは何も生まれません。<br />
　それよりは、「みんな善い人」という初期設定で組織運営した方が費用対効果は圧倒的に高い。もちろん集団の足をひっぱる人はどんな集団にもいます。根絶することはできません。でも、それには構わず、「善き人」たちが気分よく働いて集団のパフォーマンスが向上するように環境を整える方がずっと合理的です。そんな気楽な学舎を創りたいと思っています。みなさん、どうかご協力ください。（５月２０日）</p>]]>
        
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    <title>憲法九条と国連</title>
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    <published>2026-05-19T23:02:27Z</published>
    <updated>2026-05-19T23:05:38Z</updated>

    <summary>　中高生に時々オンラインで授業をしている。先日は憲法九条について話をした。事前にテーマを告知して、それについての生徒たち...</summary>
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        <![CDATA[<p>　中高生に時々オンラインで授業をしている。先日は憲法九条について話をした。事前にテーマを告知して、それについての生徒たちの意見をまず聞いて、それを読んでから授業をする。<br />
驚いたのは、回答した９人のうち６人が「改憲賛成」だったことだ。「戦力を持たないと中国や北朝鮮が攻めて来た時に抵抗できない」「他の国が戦力を持っているのに、日本だけ戦力不保持というのは不公平だ」と書かれていた。<br />
　どうやらこの幼い改憲派たちは基本的な事実を知らないまま改憲の当否について判断しているようだ。<br />
　授業ではまずその認識を正してもらった。<br />
　第一に、日本は十分な「自衛力」は持っている。国防予算の規模で日本は世界９～１０位に格付けされる「軍事大国」である。第二に、他国に侵略された場合の自衛は「個別的自衛権」として国連憲章で認められている。生徒たちの「他国からの武力侵攻に対して日本は無力」というのは、軍事についてだけ言えば失当なのである。<br />
　ただ、別の意味で日本が「無力」なのは事実である。食料自給率もエネルギー自給率も低い。海上封鎖されたらすぐに干上がる。海岸線に原発が並んでいる点も致命的である。だから、外交努力によって決して武力侵攻されないような立場を保つ必要がある。<br />
　さいわい日本には憲法九条があり、戦後８１年間、日本の軍人が他国民を殺傷するということは起きていない。だから、「日本がわが国を武力侵攻する意図を持っている」という根拠で日本を先制攻撃するというロジックは成り立たない。これは安全保障としては軍事力よりもはるかに効果的だと私は思う。<br />
　改憲派の生徒たちが国連憲章５１条について知らなかったのはなぜだろう。<br />
　彼らに改憲論を吹き込んだ大人たちはそのような基礎的事実も教えていないらしい。理由はわからないでもない。おそらく改憲派の大人たちは「国連憲章５１条は空文だ」と考えているのだろう。国連軍はたしかにこれまで戦争の抑止に効果的には寄与して来なかった。だから、国連憲章は憲法九条と同じように「理想を語るだけの空語」なのだと言うことは可能である。<br />
　だが、１９４６年憲法制定時点において、起草者たちはこれからは国連が世界政府となり、国連軍が世界最大の軍事力となって、加盟国間の紛争を実力で解決することになるだろうと予測していた。というのも、もし次の世界大戦が起きれば、それは核戦争になり、そうなれば人類は滅亡する。だから、<strong>合理的に思考すれば、世界的な規模の「公共」を立ち上げる以外に人類が生き延びる道はない。</strong>その時には世界のすべての国が憲法九条のような戦力放棄条項を持つようになる。なぜなら、紛争の理非を判定し、非ある国を処罰できるだけの実力を持った国連軍が存在する以上、加盟国は「私讐」を禁じられるからである。<br />
　かつてロックやホッブスは、私人が私権の一部を私財の一部を供託することで「公共」を立ち上げ、「万人の万人に対する戦い」に終止符を打つことができるというロジックを立てた。同じロジックで「万国の万国に対する戦い」を阻止するためには強大な実力を持つ「世界政府」を立ち上げるしかないというのは、近代市民社会論を踏まえるなら、ごく合理的な推論だったのである。<br />
　それがなぜ失敗したのかについて長い話を語らなければいけない。私たちに言えるのは、<strong>憲法九条の現実性と国連の現実性は相関している</strong>ということである。九条が空語だと言われるのは国連が機能していないからである。逆に言えば、国連が機能を回復すれば、九条は空語ではなくなる。そんな話を生徒たちにした。（『週刊金曜日』５月１３日）</p>]]>
        
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    <title>戦争の余波</title>
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    <published>2026-05-19T23:00:42Z</published>
    <updated>2026-05-19T23:01:18Z</updated>

    <summary>　東京にセカンドハウスを借りている。２０１９年頃からオーバーツーリズムが始まり、東京の定宿が予約できなくなってしまった。...</summary>
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        <![CDATA[<p>　東京にセカンドハウスを借りている。２０１９年頃からオーバーツーリズムが始まり、東京の定宿が予約できなくなってしまった。前は直前に予約を入れても泊まれる気楽なクラブハウスだったのが、いつ電話しても満員だと言われるようになった。いくつかホテルを転々としたが、うるさかったり、狭かったり、遠かったりで、どこも落ち着かない。覚悟を決めて部屋を借りることにした。<br />
　部屋があると便利なのは、着替えを置いておけることである。洗濯もできるし、自炊もできる。大荷物を持たずに東京に旅ができるようになってずいぶん助かった。コロナ禍の時は何カ月も使わないことがあり、無人の部屋に家賃だけ払うという虚しい思いをしたけれど、トータルでは借りて正解だったと思う。<br />
　半月ぶりにその部屋に行ったら、建物の周りに足場が組んであって覆いがかかっている。外壁の補修工事らしい。エレベーターで作業員と一緒になったので、「工事、長くかかるんですか？」と訊いたら、「材料が来ないので、いつ終わるかわかりません」という返事だった。教えてくれたのは上手に日本語を話すアジア系の人だった。「シンナーがないんですか？」と訊いたら「そうです」と教えてくれた。<br />
　短い会話から二つのことがわかった。一つは、日本の建設現場はアジアからの作業員がいなければ回らない状態になっていること。もう一つは材料不足で建築関係の仕事が進まないでいること。<br />
覆いのせいで部屋は薄暗い。べランダの外を頻繁に作業員が通るので、洗濯物を干すことができない。女性の住民たちはたぶんカーテンを閉め切って暮らしているのだろう。これがいつまで続くかわからない。私は月に二、三度来るだけだから我慢できるが、定住者にとっては耐えがたいことだろう。　<br />
　イラン戦争の余波がこんなかたちで生活にかかわってくるとは予測していなかった。<br />
（信濃毎日新聞５月１３日）</p>]]>
        
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    <title>「日韓連携論」</title>
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    <published>2026-05-19T22:56:54Z</published>
    <updated>2026-05-19T23:00:14Z</updated>

    <summary>　今、本を８冊同時並行で書いている。そういう曲芸的なことをしなければならなくなったのは、一つには私のような病後の老人に仕...</summary>
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        <![CDATA[<p>　今、本を８冊同時並行で書いている。そういう曲芸的なことをしなければならなくなったのは、一つには私のような病後の老人に仕事を依頼してくる非情な編集者がいるからであり、一つには私がつい依頼を受けてしまうからである。<br />
　編集者たちが非情になったのには理由があって、先年私がすい臓がんを患ったからである。「内田ももう先が長くなさそうだ。ならば生きているうちに書かせてしまおう」という焦りが彼らの督促を切迫したものにしている。こちらも生きているうちに言いたいことは言い尽くしておきたい。だから、８冊同時並行という椿事となった。<br />
　中に「韓国もの」が３冊含まれている。一つは『日韓連携論』。これは医療経済学者の兪炳匡早稲田大学教授との対談本。一つは『街場の韓国論』。これはロング・インタビュー。もう一つは韓国の政治哲学者ペ・セジン氏との往復書簡。三冊に共通する論件は「日韓連携」である。<br />
　「日韓連携」は皆さんには見慣れない文字列だと思うが、私はポスト・アメリカの外交安全保障戦略の基本はこれしかないと考えている。<br />
　「ポスト・アメリカ」というのは「アメリカ抜きの」という意味である。NATOはつとに脱アメリカの集団安全保障構想にシフトしているし、アジア諸国は中国との連携強化シナリオを検討し始めている。「日米同盟基軸」と呪文のように唱えて「ポスト・アメリカについてノープラン」というのは世界でもたぶん日本だけである。<br />
　日韓連携はノープランの日本にとっての「プランA」である。<br />
　日韓が連携すると、人口は１億７４００万人、GDPは６．３兆ドルでドイツを抜いて世界３位。軍事力もインドを抜いて世界３位と言われている。巨大な政治経済圏が東アジアにできる。兪先生と私のアイディアは、日韓が一国二制度で連携して、米中の間に中立地帯を形成し、西太平洋地域を安定させるというものである。<br />
　遠く明治の樽井藤吉の『大東合邦論』、大正の末永節の高麗国構想、出口王仁三郎の満蒙連邦構想と同根のものである。日韓連携については明治から昭和までさまざまなアイディアが提示されてきた。当初は対等合邦論だったが、それまで朝鮮に対して友好的だった福澤諭吉が「脱亜論」に転ずるに及んで、朝鮮蔑視の機運が醸成された。そして、１９１０年の日韓併合という植民地主義的な解に流れ込み、日韓連携構想は思想的にも政治的にも破産したのである。<br />
　今は国力において日韓の間には一方が他方を併合するというほどの差がない。今度こそ「対等合邦」の夢を果たしたいと在日コリアンの兪先生と私の二人で妄想を逞しくしているのである。<br />
　日韓連携論は日本のメディアではまず論及されることのない論件である。これまでお会いした政治家の中で、日韓連携論に肯定的に反応してくれたのは鳩山由紀夫元首相ひとりである。<br />
　一方、韓国ではこの論件についての反応がまったく違う。ここ数年、韓国に行く度に「日韓連携」について取材を受け、講演を求められる。聴衆は熱心に聴いてくれるし、新聞も報じてくれる。「日韓連携」が現実的な解であるかどうか、韓国の人たちは冷静に思量し始めている。日本人も潮目の変化に気づくべきだ。（中日新聞「視座」５月号　５月１３日）</p>]]>
        
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    <title>クレーマーについて</title>
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    <published>2026-05-19T22:54:52Z</published>
    <updated>2026-05-19T22:56:19Z</updated>

    <summary>　１５年ぶりにスーツを着て、ネクタイを締めて出勤する身となった。また「看板」を背負わなければならない。それが悩みの種であ...</summary>
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        <![CDATA[<p>　１５年ぶりにスーツを着て、ネクタイを締めて出勤する身となった。また「看板」を背負わなければならない。それが悩みの種である。<br />
　大学在職中は「大学教授ともあろうものが」というマクラを振って食ってかかる人がたくさんいた。子どもの頃から少数派で、「内田の言うことは変だ」と言われ続けていたから、「変なことを言うな」と言われても別に気にはならない。だが、クレームが大学宛てに来るとなると話は違う。苦言に対応するのは職員さんたちである。彼らに無用のストレスをかけるのは私の本意ではない。だから、早く大学の看板を下ろしたかった。早期退職したのはいくぶんかはそのためである。それがまた看板を背負うことになった。<br />
　就任早々、会議で炎上案件が報告された。私の投稿がネット上で炎上していたらしい（知らなかった）。学院はクレームには一切対応しないということで話は済んだ。「炎上」は私には日常茶飯事だが、また職員さんたちに迷惑がかかるのかと思うといささか気鬱になる。<br />
　クレーマーたちは「この内田の発言は学院の公式見解と受け取ってよろしいのか」という言いがかりをつけてくる。そんな理屈が成り立つはずがないではないか。学校には多数の構成員がいる。一人一人に自分の意見を発表する言論の自由がある。学院にそれを検閲したり規制したりする権利はない。「検閲しない」を「公式見解とする」に読み換えるためにはかなりの論理の飛躍が必要だと私は思うが、クレーマーたちはそうは思っていないらしい。<br />
　彼らが匿名で発信するのは、実名が明かされ、勤務先が知られることを恐れているからであろう。誰かが身元を探り当てて、勤務先に電話して、「お宅の会社の何某はこんなことをネットに書き込んでいるが、これは御社の公式見解と受け取ってよいのか」とクレームをつけてきたら「大変なことになる」と思っているからである。自分なら上司に糺されたらたちまち叩頭し「二度としません」と泣訴する。そう思っているからこそ、このようなクレームが有効だと信じられるのである。<br />
　でも、世の中はそんな人間だけで構成されているわけではない。（AERA　５月１３日）</p>]]>
        
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    <title>性善説組織論</title>
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    <published>2026-05-19T22:51:03Z</published>
    <updated>2026-05-19T22:53:42Z</updated>

    <summary>　この四月に学校法人の理事長に選任された。まさか自分がこの歳になって経営者になるとは思っていなかった。会議がいやで早期退...</summary>
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        <![CDATA[<p>　この四月に学校法人の理事長に選任された。まさか自分がこの歳になって経営者になるとは思っていなかった。会議がいやで早期退職したのに、またネクタイを締めて出勤する身となった。<br />
　組織の長になってみて改めて身にしみてわかったのは、日本の組織がここまで非効率で非生産的になった最大の理由は、組織の最優先課題を「欠点の補正」にしてきたからだということである。<br />
　本校でも、メンバーたちの多くが「問題点の摘示と取り組み」に膨大な時間とエネルギーを割いている。正直言って、そんな暇があったら教育・研究に用いればいいのにと思う。<br />
　私が会議を好まないのは、会議をすると必ず「この組織の欠点」を摘示する人が出てくるからである。そして、一人が言い出すと次々と「実はこんな問題もあって...」と後が続く。まるで解決不能の問題点のリストを長くすることだけが問題解決の道だと信じているかのように。<br />
　でも、それは違う。勘違いしている人が多いが、問題点をいくら摘示しても問題は解決されない。<br />
　人間のことを考えればわかる。<br />
　皆さんの配偶者でも子どもでも友だちでも、その人の欠点の長大なリストを作って「はい、これ読んでね」と差し出せば欠点が補正されると信じている人はいないだろう。ふつうは怒り狂ってリストを破り捨てて、剣呑な事態になるだけである。だって、「そんなこと自分だってわかっている」からである。だらしがないのも、せっかちなのも、人の話を聴かないのも、全部わかっているのである。でも、人には言われたくない。　<br />
　人間の欠点は補正できない。周りの人にできるのは、その人の長所を伸ばして欠点を目立たなくすること、それだけである。長所がもたらすベネフィットを最大化して、欠点のもたらすダメージを最小化する。<br />
　不思議なもので、人が成長して、長所が開花して「あれはなかなかの人物だ」ということになると、「だらしがない」が「鷹揚」に見え、「せっかち」が「先見性」に見え、「人の話を聴かない」のが「軸がぶれない」に見えてきたりするのである。ほんとうに。<br />
　組織も同じである。人間における欠点に当たるのが「フリーライダー」、長所に当たるのが「オーバーアチーバー」である。長く組織人として生きてきて確信を込めて言えるのは、フリーライダーを探して、説教したり、叱責したり、処罰したりしても、組織のアウトカムは全く向上しないということである。「フリーライダー捜し」や処罰は組織にいかなる利益ももたらさない。そんな暇があったらオーバーアチーバーたちが気持ちよく仕事ができるように環境を整備する方がはるかに効率的である。彼らが望むのは要するに「好きにさせてくれ」ということに尽きる。だったら好きにさせてあげればいい。「管理されたり、査定されたり、報告書を書かされたりするのがキライなの」と言うなら、言う通りにすればいい。<br />
　つまり組織マネジメントの要諦は「管理しない」ということになるのである。性善説（というか「ほとんどの人間は本性的に働き者である説」）で組織を運営することである。管理しなくても、命令しなくても、みんながその任にふさわしい働きをしてくれるようにすればいい。それほど難しい話ではない。「こういう組織にして、こういうミッションを果たしたい」という「理想」についてリーダーが解像度の高いイメージを提示することができればいいのである。果たすべき使命についてのメンバーたちが確かな共通理解を持っていてくれるなら、極端な話、管理や査定は不要である。<br />
　こんなことを書くと「ふざけたことを言うな」と青筋を立てる人がきっといると思う。反論は現実を以て示したい。（『週刊金曜日』５月３日）</p>]]>
        
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    <title>憲法九条のおかげです</title>
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    <published>2026-04-30T09:44:28Z</published>
    <updated>2026-04-30T09:45:07Z</updated>

    <summary>　日米首脳会談では憲法九条のおかげで日本はホルムズ海峡に自衛艦を派遣しろというトランプ大統領の要請をかわすことができた。...</summary>
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        <![CDATA[<p>　日米首脳会談では憲法九条のおかげで日本はホルムズ海峡に自衛艦を派遣しろというトランプ大統領の要請をかわすことができた。戦争に巻き込まれずに済んだのは九条のおかげである。でも、「日米首脳会談、大成功」と大本営発表を垂れ流すだけのメディアはそうは報道しないし、もちろん高市首相自身も「九条のおかげです」とは決して言わない。なにしろそれを廃棄することが彼女の悲願なのだから。<br />
　では、どうして「九条のおかげで派兵をまぬかれたこと」を外交的成果として称えながら、その当の九条は「もう時代に合わない」という理由で廃絶することを目指すことができるのか。論理的にはこれは成立しない。論理的に考えれば、これは「九条があるせいで派兵できなかった」ことを高市首相自身は「外交的失敗」と総括していたということである。<br />
　高市首相自身は渡米して、トランプ大統領に「ただちに米軍、イスラエル軍と共に戦うために自衛隊を派兵します」と約束したかったのだと思う。国際的に孤立しているトランプにとってこの「援軍」はどれほどうれしいものだっただろう。おそらくトランプは高市を「世界最高の指導者」と持ち上げ、「アメリカを救った英雄」とほめあげ、高市に名誉勲章くらい授与したかも知れない。<br />
　でも、そうならなかった。高市が「でも、九条があるので、すぐには派兵できません」という条件を付けたからだ。「帰国したらただちに改憲に取り組みます」と約束した。トランプは最初はそれを「すぐに自衛隊が駆けつける」ことだと解釈した。だから翌日に「日本が支援に来る」と語り、ウォルツ国連大使も「日本の首相は海軍を出すと約束した」と明言したのである。でも、そのあとにホワイトハウスのアナリストが大統領に「あの～、大統領。日本の政治家が『可及的すみやかに』とか『最大限のスピード感をもって』とかいうのは、ふつうは『すぐにはやらない』という意味ですよ」と耳打ちした。トランプは激怒し、ホワイトハウスのＨＰは、高市がトランプに卑屈なほどおもねるところと、まともな英語が話せないところと、真珠湾をギャグにされてもぼんやりしていたところだけを切り抜いて「日米首脳会談」の動画を作成した。「無能で、卑屈な政治家」というイメージを公式に配信したのである。高市が「即時派兵」のようなことを言いながら、実行することを確約できないでいることにトランプはものすごく怒ったのだ。まあ、そういうやつである。<br />
　あの時もし「即時派兵」をトランプに確約して帰国したら、高市は「米大統領に確約した。この誓約を裏切れば、国際的な信義を裏切ることになり、日米同盟は終わる。それでもいいのか」と自民党議員を恫喝することができた。改憲は後回しにしても「存立危機事態」を宣言して、閣議決定だけで戦場に自衛隊を投入するというような展開になっていただろう。<br />
　それこそ高市の「大勝利」だったのだ。日本の民主主義と平和主義はその時終わり、国際社会から「世界最強のならずもの国家」アメリカに追随する「せこいならずもの国家」認定されて、ネトウヨたちの悲願であった「大日本帝国の劣化版」が実現するのであるから。九条のおかげで日本は救われた。<br />
　でも高市首相は「アメリカの尻について戦争ができる国」を実現する努力をこれからも止めないだろう。当のアメリカ人たちがトランプの始めた戦争にうんざりしているのに。（週刊金曜日４月１５日）</p>]]>
        
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    <title>祖父母の家業を継ぐこと</title>
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    <published>2026-04-30T09:41:00Z</published>
    <updated>2026-04-30T09:42:45Z</updated>

    <summary>　凱風館の書生の一人が故郷に戻って祖父母の農地を継ぐことにしましたと報告に来ました。聴いてびっくりしました。同じような話...</summary>
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        <![CDATA[<p>　凱風館の書生の一人が故郷に戻って祖父母の農地を継ぐことにしましたと報告に来ました。聴いてびっくりしました。同じような話を立て続けに聴いたからです。<br />
　少し前に山形県にある東北農林専門職大学の市民講座の講師を頼まれました。神戸まで出講依頼に来てくださった先生に伺ったら、この大学はできて２年目。農業経営の学科が３２名、林業経営の学科が８名の一学年４０人という小さな大学です。大学が募集停止になったり、統廃合されたりしているご時世に新しい大学を創るというのはずいぶん冒険的なことですから、興味が湧いて、「どんな人が入学してくるんですか」訊いたら、「祖父母が農林業を営んでいる家の孫たち」が目立つと教えてもらいました。<br />
　農林業は前から「跡継ぎがいない」と言われていました。子どもたちが家業を継ぐのを嫌って都会へ出てしまったため農業従事者が高齢化していることは、みなさんもご存じだと思います。跡継ぎがいないまま高齢化した農林業の従事者たちが、もうこれ以上は体力的に無理だから、土地を手放すつもりになったところで、思いがけなく、孫が「私が跡を継ぐよ」と手を挙げるというケースが出て来たのだそうです。<br />
　さらにそのすぐ後、今度は九州に講演に行った時に、二十歳の女性から「祖父が丹精して守ってきた森を継ぐことにした」という話を聴きました。彼女が生まれた時に祖父が苗を植えて育てて来た木々が今ではきれいな森になっている。親たちは別の仕事をしていて農林業を継ぐ気がないので、孫である彼女が森を守ることにしたのだそうです。森に案内してもらって、地面に寝転んで、枝の間から青空を眺めながら、「いい話だなあ」と思いました。<br />
　調べてみたら、農業従事者の平均年齢はずっと高齢化を続けてきていたのですが、２０２５年は前年の６７．８歳から６７．６歳に低下していました。これは離職者が増えて、農業従事者が減ったせいで起きた現象で、別に若返ったわけではないと説明が書いてありましたけれど、それだけではないような気がします。だって、わずかの間に「孫が家業を継ぐ」という事例を三つ続けて聴いたんですからね。<br />
　こういう「潮目の変化」というのは統計的に顕在化するより先に、「時代の気分」として何となく感知されるものです。僕は「時代の気分」の変化にはかなり敏感な方です。メディアで大々的に報道されて、天下周知の事実になった後になって、その現象の説明をばたばたしていたんじゃ、「物書き」は務まりませんからね。でも、それは単にわずかな変化の兆候を感じ取るというだけじゃないんです。「そういうことが起きたらいいな」という思いがそういう事例についての情報を引き寄せるんだと思います。だって、僕が聴いた三つの事例は、うちの書生からと、僕に出講依頼してきたところからなんですからね。僕が日ごろどんなことを考えているかを熟知している人がわざわざ教えに来てくれた。偶然耳に入った話じゃない。僕が引き寄せた話です。こんな話を聴かせたら、内田はきっとうれしがるだろうと思った人が教えてくれたんです。ですから、これから似た話がどんどん僕の耳には入ってくると思いますが、みなさんがメディア経由でこの話を知るのは、たぶんまだだいぶ先の話だと思います。<br />
　でも、どうです。この話を知って、いま「親は祖父母の家業を継がなかったけれど、私はやってもいいかな・・・」とちょっと思った人、いませんか？　二人でも三人でもいたら、この原稿を書いた甲斐があります。（蛍雪時代４月号、３月２４日）</p>]]>
        
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    <title>中国の親子</title>
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    <published>2026-04-30T09:38:36Z</published>
    <updated>2026-04-30T09:40:18Z</updated>

    <summary>　北京在住の友人のジャーナリストである斎藤淳子さんが定期的にレポートを送ってくれる。中国の方と結婚して、北京で子どもを育...</summary>
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        <![CDATA[<p>　北京在住の友人のジャーナリストである斎藤淳子さんが定期的にレポートを送ってくれる。中国の方と結婚して、北京で子どもを育てているので、ふつうの新聞記事では読むことのできないディープな中国社会の内側を教えてくれる。最近送ってくれたのは中国青少年の「うつ病」についての記事だった。<br />
　ご存じの通り、中国は激烈な競争社会である。幼少の時からとにかく勉強を強いられる。成績のよい子は中学から「超級学校」と呼ばれる都市部の全寮制の進学校に送り込まれて、朝から夜まで、休みなく受験勉強をさせられる。成績の悪い子は地元の「県中」に進むが、この段階でキャリアパスが終わってしまう。もう出世は望めない。子どもの自己評価は下がる。一度出世コースから外れると、「立身出世主義」イデオロギーにどっぷり染まった親や教師からはもう十分な感情的ケアが受けられない。そうやって、成績の良い子も、悪い子も、精神的な傷を負うことになる。<br />
　公式統計によると、１８～２４歳の若年層のうつ病リスクは２４．１％。高校生のうつ病検出率は４０％、中学生で３０％、小学生で１０％とうつ病患者は増加し、かつ低年齢化している。不登校も、自傷行為も、自殺も増えている。この問題をリサーチしてきたある研究者は「中国社会はいまだかつてない精神的危機に直面している」と警鐘を鳴らしている。<br />
　斎藤さんは母親らしく、この危機の本質を「子どもを愛することのできない親」の問題としてとらえている。この着眼的には私も賛成である。子どもをその「あるがまま」で承認することができない親がいる。そういう親は「これこれの条件をクリア―したら子どもとして愛するが、それができなければ愛さない」という「条件つき承認」を突き付け、子どもが「親から愛されないことの恐怖」に駆動されて必死で勉強するように仕向けようとする。愛情と承認を兵器化して、子どもの行動をコントロールしようとするのだ。<br />
　斎藤さんが紹介しているある高校生は二歳から塾通いを始め、北京のトップ高校に受かったが、高校１年で起床困難になり、うつと診断され、２年間服薬治療を受ける。のちにこう述懐している。「学校では授業と宿題、家はその延長でまた宿題。パパとママは学校よりも厳しかった。僕の生活には登校と宿題しかなかった。」<br />
　ある名門大学生はこう語る。「私たちの世代は競争は教え込まれたけど、親しい関係については教わらなかった。どうやって人と自分を愛するのかも教わったことがない。」（斎藤淳子、「『そのままで愛される』価値が消えるとき」、『世界経済評論』２０２６年、５～６月号）<br />
　この言明の中で最も重要なのは「自分を愛する」仕方を教わったことがないということだと思う。キリスト教の重要な教えに「あなた自身を愛するように隣人を愛しなさい」という聖句がある。「隣人を愛する」ためには「自分を愛する仕方」を適用しなさい、と。でも、「自分を愛する仕方」は誰が教えてくれるのだろう。そんなことは自明過ぎて、教えるまでもないのだろうか。私は違うと思う。自分を愛するのはそれほど簡単なことではない。実際に毎年たくさんの人が自殺している。病んだ自分や貧しい自分や虐げられている自分を愛することができないから死を選ぶ。自分自身を内省してみても、卑屈であったり、病弱であったり、不器用であったり、無能力であったりする自分を恥ずかしく思うという人はたくさんいる。彼らは自分を愛することができないでいる。自分を愛することのできない人が隣人を愛せるだろうか。<br />
　私たちが自分を愛する仕方を学ぶのは、親に愛されることを通じてである。私はそう思う。親から無条件の承認を与えられることで、「愛されるに値するもの」として自分を認識する。その時初めて「愛する」という行為の主体は立ち上がる。そういう順序だと思う。<br />
　私自身は子育てに際して子どもには「生きていてくれさえすれば、それでいい」という方針を採った。子どもが何をしても、何を求めても、すべて承認することに決めた。子どもの要求に私が是々非々で対応して、「これはOK」「これはダメ」と判断していると、子どもは私に判断を丸投げして、自分の欲望を自己点検しなくなる。だから、何を求めてきてもすべて承認することにした。「たとえ借金しても君が欲しいというものは全部買ってあげる」。そう宣言したら、それまで「あれ買って、これ買って」とうるさく要求してきた子どもがぱたりと口をつぐんだ。自分がほんとうは何を求めているのか、それを自分で考えるようになってくれたのである。<br />
　無条件の承認は子どもをスポイルすると思っている人もいると思う。でも、そうでもない。「生きていてくれればそれだけでいい」というのは親の真情である。私は６歳のときに重篤な心臓疾患を患って死にかけたことがある。さいわい新薬が効いて一命をとりとめた。その後も８歳の時、１０歳の時に長く入院した。だから、両親は私が「朝起きてきて、三度のご飯を食べて、機嫌よく暮らしていれば、それで十分」だと思ってくれた。子どもにとってこれほど楽なことはない。おかげで私は「無根拠な自信」を持って生きられるようになった。別にたいしたことを成し遂げる必要なんかない。私が生きていれば、とりあえず両親は安堵してくれる。だったら何でも好きなことをしよう。そう思って生きて来たら、７５歳の機嫌のよい老人になっていた。両親は疾くに鬼籍に入ったが、無条件の承認は生き続けたのである。<br />
　中国の子どもたちのことが心配だけれど、それより私は親たちのことが心配である。「生きていてくれさえすれば、それでいい」というふうに親切に子どもを育てる方が、結果的には親も子も幸せになれる。そのことを中国の人たちにアナウンスしたいけれども、声を届ける手段がない。（JA:COM　４月２０日）</p>

<p>　<br />
　</p>]]>
        
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    <title>永井陽右君のこと</title>
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    <published>2026-04-30T09:36:07Z</published>
    <updated>2026-04-30T09:37:53Z</updated>

    <summary>　　アフリカや中東で人道支援活動をしている永井陽右君が凱風館に遊びに来てくれた。三年ぶりくらいである。この間どんなことを...</summary>
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        <![CDATA[<p>　　アフリカや中東で人道支援活動をしている永井陽右君が凱風館に遊びに来てくれた。三年ぶりくらいである。この間どんなことをしてきたのか、私一人で聴くのではもったいないので、門人やゼミ生たちに声をかけて３０人ほどの前で報告会をしてもらった。<br />
　前に来た時はソマリアのイスラーム過激派組織アル・シャバーブからの投降兵の受け入れ活動に従事しているという話をしてくれた。殺し殺されということに疲れた少年兵たちに寝食を提供し、文字を教え、イスラームの教義も多様であることを教え、手に職をつけさせる。<br />
兵士に投降を進めるのだから過激派組織からは敵認定される。命がけの仕事である。お金にもならない。でも永井君は「誰もやらない仕事だから僕らがやる」とさらりと言い切る。その辺の肚の座り方が常人ではない。<br />
　そんな活動を十数年続けているうちに、世界のイスラーム過激派ネットワークに「アフリカや中東で支援活動をしている変なアジア人がいる」ということは伝聞で広まったのだそうである。<br />
「この仕事では日本人であるということが大きなアドバンテージなんです」と永井君は言う。日本は平和憲法を持つ国家で、アフリカにも中東にも植民地主義的な侵攻をしたことがない。だから、過激派の諸君も永井君を見て、「変なことをするやつ」だとは思っても、帝国主義国家のエージェントではないかとか、植民地化の下心があるのではないかといった疑念は持たずにいてくれる。　　<br />
　「僕がアメリカ人やイギリス人だったら、彼らは絶対に信用してくれません。」<br />
　それなのに日本はその平和主義を捨てて、アメリカに追随して戦争ができる国になることに前のめりになっている。永井君たちが命がけで築いてきた「平和主義の日本」という世界的な評価は一度失われたらもう二度と取り返せない。（信濃毎日新聞４月１７日）</p>]]>
        
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    <title>中高生からの質問６</title>
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    <published>2026-04-28T01:35:42Z</published>
    <updated>2026-04-28T01:42:54Z</updated>

    <summary>「自分」の型にはめようとする力が周りから働いたとき、どのようにすればよいですか。自分が自分ではなくなってしまいそうな感覚...</summary>
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        <![CDATA[<p><strong>「自分」の型にはめようとする力が周りから働いたとき、どのようにすればよいですか。自分が自分ではなくなってしまいそうな感覚が、とても怖いです。</strong></p>

<p>　「型」というのは、なかなか取り扱いの難しいものです。「型」は人をときに解放し、ときに束縛するからです。<br />
　「型にはまる」と、それによって能力が高まったり、行動範囲が広がることがあります。<br />
　例えば、お医者さんはみんな「同じ型」を演じています。白衣を着て、ディスプレイを眺めて、聴診器を手にして。国家試験を受かったばかりの新米医師も、５０年臨床をやっている名医も、患者の眼からは「同じような医者」に見えます。だから、患者は診断をすなおに聴くし、処方にも従う。新米もベテランも、型を演じていると「同じくらいのレベルの医者に見える」せいで、医療は高い水準を保つことができています。患者は医師のレベルを自己責任で判定する責務から解放される。これはどう考えても患者にとってはプラスです。だって、病気になってよれよれの時に「さあ、今あなたの前にいる医者はどれくらいのレベルなんでしょう。あなたを治癒できるだけの技術と知識を持っているでしょうか。治療を受けても平気なんでしょうか。さ、自己責任で決定してください。You have the choise 」なんて言われたくないでしょう？　そういう決定は下さなくてもよいというのが「型の効用」（の一つ）です。<br />
　<br />
　「共感」を表す言葉にはempathy とsympathy の二つがあります。エンパシーは「相手の内側に入り込んで相手の身になること」、シンパシーは「外から相手の身を思いやること」です。「痛みを共にする」のと「痛そうだなと思う」の違いです。<br />
　「型にはまる」のはエンパシーを達成するための一つの方法だと言ってよいと思います。<br />
　「エンパシーを達成する」というのは「自分ではなくなる」ことです。そうですよね。「相手の身になる」んですから。でも、それって、それほど「怖い」ことじゃないと思うんです。だって、エンパシーとシンパシーは紙一重なんですから。<br />
　膝をすりむいて痛がっている人を見て「エンパシーを感じた人」と「シンパシーを感じた人」はだいたいどちらも「バンドエイドを差し出す」というリアクションをしますよね。飢えている人を見たら、どちらも「アンパン食べる？」というタイプのリアクションをしますよね。どちらも外側から見たら、それほど違うことをしているわけではありません。だから、「型」というものを、もう少し柔軟に、多義的にとらえても大丈夫なんじゃないですか。</p>

<p>　僕は武道の道場を主宰していますが、道場で稽古するときは、必ず道着に着替えます。そして、正面に礼をして、師範に礼をしてから稽古を始める。「儀式」です。でも、単なる虚礼ではありません。これは「はい、皆さん、今から『稽古モード』に切り替えてください」という指示です。<br />
　そして、まことに不思議なことに、この「儀式」をすると、みんなの気持ちと身体が、それまでの「日常生活モード」から「稽古モード」に切り替わるんです。呼吸の仕方も変わるし、五感の感度も変わるし、目付も、動きも変わる。そういうふうにして、ふだんのままではなかなかアクセスできない心身の状態に移行できる。<br />
　稽古中の僕の指示はかなり観念的です。「風雲に乗じて自在を得よ」とか「場を領する気の流れに乗れ」とか「我執を去って自在を得よ」とか。何のことだかふだん暮らしていると、わかりません。「なんのこっちゃい」です。これがでも、不思議なことに「道場という額縁」の中にいると、意味が通じてしまう。だって、実際にみんなの動きががらっと変わりますから。でも、稽古が終わって、道着を脱いで、道場で座っておしゃべりしているときは「額縁」はもう外れていて、ふだんの感覚に戻ります。<br />
　この「切り替え」の手がかりとして「型」というのは、きわめて有効なものです。</p>

<p>　質問された方は「型にはめられる」という受動態での表現がたぶん気になっているんだと思います。あのですね、「型」は自分で選んでいいんです。というか、自分で選ぶものなんです。自分の活動領域や感情生活を広げたり、深めたりするためにはかなり有効な手立てなんです。「型にはまる」というのは。<br />
　問題になっているのは、外部から無理やり強制される「型」ですよね。こちらの都合も聴かずに勝手に「この型にはまれ」と言われると「むっ」としますよね。それは、この場合の「型にはまれ」という命令が、自分を広げたり深めたり、活動的にするのではなく、むしろ自分を限定し、身動きさせなくする「呪い」に近いものだからです。型にはめられることで、生きる力が損なわれる。そういう「型」に対してはきっぱりと「嫌だ」と対応をしてよいと思います。<br />
　「型にはまること」そのものに良否の違いはないと僕は考えています。「型にはまる」ことで自由になり、生きる力が高まることもあるし、「型にはまる」ことで不自由になり、生きる力が損なわれることもある。ケース・バイ・ケースです。<br />
　道場で道着を着て、「型稽古」をするのも「型にはまる」ことだし、仏門に入って頭を剃って、墨染めの衣をまとうのも「型にはまる」ことです。でも、それによって、それまでの自分から離脱することができ、それまでより活動領域が広がり、深い生き方ができるようになったとしたら、これは「型にはまってよかった」という選択だということになります。<br />
　逆に、仲間内で割り振られた「キャラ」を押し付けられて、あてがわれた「キャラ」から外れた言動をすると、「らしくないこと言うな」とか「らしくないことするな」という言い方で、活動領域を狭められ、生きる自由を損なわれるのだとしたら、これは「型にはまって悪いことが起きた」ということになります。<br />
　でも、「キャラ」そのものを悪しきものと言い切ることもできません。「高校デビュー」というのがありますよね。『今日から俺は！』です。中学まではおとなしい優等生だった子が、自分のことを誰も知らない高校に進学したのを契機に「オレ、けっこうワルなんだ。うかつに近づくと火傷するぜ」と嘘の自己紹介して、そのままその在学中ずっとその「キャラ」で突っ張るということがあります（けっこう多いんです）。周りの級友が「ああ、そういう子なのね」と思って、それらしく遇してくれると、それまでとは全然違う自分を演じることができる。これ、結構楽しいです（実は僕もやりました）。<br />
　というわけですから、どうぞ「型」を自在に使い分けて、自分にとって一番楽しい使い方を探し出してください。</p>

<p></p>]]>
        
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    <title>中高生からの質問　その５</title>
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    <published>2026-04-22T01:52:28Z</published>
    <updated>2026-04-22T01:56:17Z</updated>

    <summary>「なぜ人類はAIの開発をやめないのでしょうか。私はやめた方が良いと思うのですが、先生はどうお考えですか。」 　どうしてな...</summary>
    <author>
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    </author>
    
    
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        <![CDATA[<p><strong>「なぜ人類はAIの開発をやめないのでしょうか。私はやめた方が良いと思うのですが、先生はどうお考えですか。」<br />
</strong><br />
　どうしてなんでしょうね。僕にもよくわかりません。<br />
　あるテクノロジーを開発することが将来的にもたらすベネフィットと、予測されるリスクを比べて、リスクの方が大きい場合には、テクノロジーの開発については抑制的であるべきだという考え方があります。「テクノロジー抑制主義(techno-prudentialism)」といいます。prudential というのは、「慎重な、最新な、分別のある、万全を期する」という意味の形容詞です。核兵器の開発などがこれに当たります。どう考えても核兵器の「使い勝手」がよくなったことで人類が享受しうるベネフィットと、人類が冒すリスクでは、リスクの方が高いことは確実ですから。それでも人類は核兵器を手離しませんし、核ミサイルの精度や速度を上げることに依然として多くの資源を投じています。<br />
　<br />
　ＡＩも核兵器と同じだと思います。ＡＩがもたらす利便性と、ＡＩがもたらすネガティヴな影響を比べたら、ネガティヴな影響の方が明らかに大きそうです。それなら開発を止めたらいいのに、どこも止める様子はありません。いくつかの企業がすさまじい金額の投資を行って、ＡＩ市場の独占を狙っています。OpenAI(ChatGPT)、Anthropic（Claude）、Google(Gemini)、xAI(Grok)などなど。いずれどこかの企業が市場独占を果たして、全人類が同じAIを利用する・・・というあまり想像したくない状況が到来しそうです。<br />
　いま、大学の先生たちと話をすると、必ずＡＩの話が出ます。レポートの多くを学生たちはＡＩに丸投げして、それを提出してくる。そういう場合、自分で書いたレポートのはずなのに、本人に読ませてみると「読めない漢字」がある。内容を要約させると、自分で書いたはずのレポートの内容を理解していない。そういうことがしばしばあるそうです。困りましたね。<br />
　ですから、課題を出してレポートを書かせるということ自体が、今や教育活動として意味をなさなくなってきている。卒論をＡＩに書かせている人はもうたくさんいるでしょう。そのうち博士論文をＡＩに書かせて学位を取る人も出てくるかも知れません。<br />
　AIの開発は止められない。止めるとしたら、世界同時に止めるしかありませんが、どこか一つの企業が「抜け駆け」で開発を続けたら、そこがいずれ市場を独占することになる。だから、秘密裡に開発を続けるところが必ず出てきます。私企業がやることをすべて止めるわけにはゆきません。<br />
われわれにできることは、AIがもたらす破壊的な影響をどうやって最小限にとどめるか、です。<br />
　でも、どうしたらいいんでしょうね。大学の場合だと、とりあえずは「レポートを課さず、学生を教室に集めて、教師の眼の前で、手書きで答案を書かせる」ということくらいしか対策を思いつきません。<br />
　こんなのはそれほどシリアスな話ではなくて、ほんとうに深刻なのは、AI導入による「雇用の消失」です。<br />
　自動運転の開発にAmazonのジェフ・ベゾスは巨額の投資をしていますが、これが実用化されたら、トラックやバスやタクシーのドライバーは失職します。米国では３００万人が失業するという予測が示されています。<br />
　医師や弁護士のような専門職でも、「大量のデータを読み込んで、情報を検索する」という仕事はAIに丸投げできますので、かなり多くの仕事が失われます。先日お会いしたお医者さんはCTやMRIの画像を見て診断を下す仕事が専門だそうですけれど、この仕事もあと数年以内にAIに代替されるので、自分が経験を通じて会得した専門的な知識と技術は無価値になる・・・と嘆いていました。<br />
それ以外にどの業種が、どれくらいの規模で、いつ「雇用消失」に遭遇することになるのか・・・これは今のところ誰にも正確には予測できません。「ホワイトカラー」と呼ばれるデスクワークのかなりの部分はAIで代替可能ですから、求人が減ることは確実です。みなさんが大学を卒業するころは就活がたいへんになるということです。<br />
　今欧米では、配管工とかタイル工とかとび職とか、「ブルーカラー」の年収が急騰しているそうです。それはこれらの仕事はAIやロボットでは代替できないからです。もちろん「とび職ロボット」だって作ろうと思えば作れるのでしょうが、そのコストと人間を雇う賃金を比較したら、人間を雇う方が圧倒的に安い。それなら開発する必要がない。そういうことだと思います。<br />
　なんだか切ない話になってしまいましたね。でも、AIに代替できない仕事は探せば一杯あります。僕は合気道という武道を教えていますけれども、これはAIでは代替できないと思います。AIには身体がありませんから。身体が経験する微細な変化を感知して、言語化して、訓練法として体系化する...という創造的な作業は機械にはできない。<br />
　それから「こういう文章」を書くのも、たぶんAIにはできないと思います。<br />
　「こういう文章」とはどういう文章かというと、「何を書くつもりなのか自分でもよくわからないままに書き始めて、書いているうちにだんだん何を書きたいのかわかってくる」ような文章です。手探りで書いている文章です。書きながら書き手自身が変化する文章と言ってもよい。書くというのはそういうことなんです。自分が書いた言葉を読んで、書き手自身が「ああ、私はこんなことを考えていたのか」と納得するということが起きる。自分が書いた言葉にひきずられて、「そんなことを書くつもりがなかったこと」を書いてしまうということも起きる。<br />
　書くというのは、そういう生成的なプロセスなのですが、AIはデータを一望俯瞰して一気に序論から結論まで書くことができるので、書き出した時の不完全性が書きながら修正され、「無知」が充填されるような文章はたぶん書けないと思います。<br />
　でも、そのうちに「バカのふりをするAI」もできるかも知れませんから。先のことはわかりません。<br />
　というわけで、しばらくはAIのもたらす悪影響をどう阻止するのかについてひとりひとりで工夫するしかなさそうです。お役に立てずにすみません。</p>]]>
        
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    <title>月刊日本のロングインタビュー</title>
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    <published>2026-04-15T07:56:07Z</published>
    <updated>2026-04-15T08:04:11Z</updated>

    <summary>――　アメリカ・イスラエルは昨年６月の12日戦争に続いて再びイランを攻撃し、最高指導者のハメネイ師ら指導層を殺害しました...</summary>
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        <![CDATA[<p><strong>――　アメリカ・イスラエルは昨年６月の12日戦争に続いて再びイランを攻撃し、最高指導者のハメネイ師ら指導層を殺害しました。</strong></p>

<p><strong>内田</strong>　これは予想外でした。トランプは「ドンロー主義」を掲げて、西半球に勢力圏を限定して、東半球からは軍事的に撤退していくものと考えていました。まさか再び中東に突っ込んでいくとは思わなかった。<br />
　なぜこんなことをしたのか。トランプは２月28日の声明で「47年間」という言葉を繰り返し強調して、イラン国民に体制転換を呼びかけました。つまり、47年前のイラン革命で成立した現体制を倒して、「元に戻す」つもりだった。忘れている人の方が多いでしょうが、革命前のイランは中東きっての親米国家で、イスラエルの親密な同盟国でもありました。ところが、１９７９年のイラン革命でパーレビ王朝が倒されて、現在のイラン・イスラーム共和国が成立し、アメリカやイスラエルに敵対するようになった。ですから、イランの体制転換というのは、イスラム原理主義を排して、民主主義体制にするという意味ではなく、端的に「親米国家に戻す」という意味です。親米的な体制であれば、別に王政でも寡頭制でも腐敗国家であっても、なんでも構わない。それがアメリカの本音でしょう。<br />
　そうなれば、イランの石油も手に入るし、ホルムズ海峡も掌握できる。イスラエルの安全も保障される。何より11月の中間選挙にとって大きなプラス材料になる。そんな美味しいシナリオを誰かがトランプに吹き込んだ。たぶんネタニヤフかヘグセス国防長官や取り巻きのおべっか遣いたちでしょう。<br />
　昨年の「12日戦争」でイランの軍事力は弱っている。大規模な反政府デモでイラン国民のイスラーム体制への拒否感も限界まで高まっている。ここでアメリカがベネズエラで成功した「斬首作戦」でハメネイ師と幹部たちをピンポイントで暗殺して、圧倒的な軍事力の差を見せつければ、イラン政府は白旗を掲げる。すると、国民が蜂起して、神権政治体制が転覆される...。<br />
　このシナリオには1953年のクーデタという成功体験があります。この時、CIAは英国のMI-6と共同作戦で、イランの反体制派に資金や武器を供与して、石油国有化によって英米の石油利権を取り上げたモサデク政権を倒して、パーレビ二世の親英米政権を打ち立てました。<br />
　もう一つの成功体験は、今年初めのベネズエラでの作戦です。アメリカが「斬首作戦」でベネズエラのマドゥロ大統領夫妻を官邸から拉致すると、後継の大統領は反米から親米にたちまち方針転換し、国民も黙ってそれを受け入れた。<br />
　イランでも同じことが起きるだろうとアメリカは考えたのだと思います。「斬首作戦」というのは、国家指導者の行動パターンを完全に把握していないとできません。それができるとのは、ふつうは側近に内通者がいるということです。政権中枢に裏切り者がいるというのは政権の末期症状です。ベネズエラはそうでした。イランでも、もし中枢に内通者がいるなら、政権も末期だと判断したのかも知れません。<br />
　何よりも日本という成功体験が大きいと思います。軍事的に徹底的に痛めつけられて、主権も国土も奪われた国は、二度と宗主国逆らわない忠実な属国になる。それをアメリカは日本で経験した。この成功体験の「蜜の味」があまりに甘美だったので、以後８１年間のアメリカの海外への軍事行動の下には、つねにこの成功体験が伏流していた。軍事的徹底的に叩いて、屈辱的な地位に落とせば、その国は手のひらを返して忠実な属国になる。アメリカはそう信じてベトナムやアフガニスタンやイラクに侵攻して、全部で失敗した。どこにも「日本みたいな国」はなかった。<br />
　武道ではこういうのを「勝ちに居着く」と言います。一度大成功するとそのパターンに釘付けになって、それ以外のアプローチに切り替えることができなくなる。アメリカの戦後８１年間の海外への軍事的介入はすべて同一パターンの繰り返しです。そして全部失敗している。<br />
　今回は初手から失敗でした。軍事作戦を始めた２月28日にいきなり小学校を誤爆して１７０人の女子児童を殺した。これでイラン国民の反米感情が一気に高まった。これまでの非民主的な体制にはもう耐えきれないが、それ以上にアメリカが憎い。この民間人虐殺のせいで、イラン国民の反体制機運はむしろしぼんでしまった。むしろ「今はイラン人同士で争っている場合ではない。アメリカを追い出すほうが先だ」と国民的な統合を強めることになった。</p>

<p><strong>――　４月８日にはアメリカとイランの間で停戦が成立し、和平交渉に移行しました。</strong><br />
<strong>内田</strong>　トランプは政治的には危機的状況にあります。支持率は下がり続けですし、州知事選や州議会選では民主党に連敗しています。このままだと11月の中間選挙も大敗する可能性が高い。そうなると議会多数派を占めた民主党によって弾劾されて、失職し、場合によっては投獄されるリスクがある。トランプとしては何としてもそれだけは避けたい。<br />
　ネタニヤフも事情は同じです。２０１９年に汚職容疑などで起訴され、２０２０年から裁判にかけられています。イスラエルでは今年10月までに総選挙を実施する予定ですが、こちらもネタニヤフ率いる与党が敗北する可能性が高い。選挙に敗けて首相辞任となると、ネタニヤフも有罪判決を受けて、囚人服を着せられるかも知れない。<br />
　だから、ネタニヤフはトランプを唆して、イラン戦争を始めさせたのだと思います。トランプもネタニヤフも選挙で敗ければ失職・投獄のリスクを抱えている。だから、お互いに協力してイランで戦果を上げ、それぞれの選挙を乗り切ろうとした。二人の権力者が自己保身のために戦争を始めた。さすがにこれほど卑しい動機から始まった戦争は過去に見たことがありません。<br />
　でも、その甘いシナリオ通りにことは進まず、イランは予想外に激しく抵抗し、国内で反体制の市民運動が起きる気配もない。それでトランプは焦り始めた。アフガンで20年、イラクで８年、「泥沼」のような長期戦を戦った結果、アメリカは莫大な戦費を費やし、７０００人の戦死者を出した。でも、政治的には何も得らなかった。<br />
　そもそもトランプはそういう無駄な「終わらない戦争」を徹底的に批判して大統領になったのです。国益に資するところのない戦争を終わらせて、国内のインフラや雇用に税金を使うべきだという「アメリカ・ファースト」の訴えが有権者の琴線に触れた。そのトランプが中東で戦争を始めた。これもまた「終わらない戦争」になるのではないかという不安がアメリカ国民の間に広がった。<br />
　だから、トランプは最初に描いていたシナリオが楽観的に過ぎたことに気づいた後は、できるだけ早く手じまいしたかったのだと思います。死傷者が多く出る地上作戦は避けて、アリバイ的に空爆をしてイラン国内のインフラをいくつか破壊して、「大勝利だ」と宣言してイランから撤退する。途中からはそういうふうにシナリオを書き換えたのだと思います。<br />
　ふつうの政治指導者ならば、一度戦争目標を「体制転換」と掲げた以上、それをある程度達成するまでは引っ込みがつかない。過去の自分の発言との整合性を取らないとまずいと思う。でも、トランプにはそういうこだわりがありません。不動産屋のセンスで、儲からないと分かれば、さっさと損切りする。<br />
　「体制転換なんて言った覚えはない。イランの核施設を叩くことが戦争目的だと初めから言ってたじゃないか。だから大勝利なんだ」とトランプなら平気で言うでしょう。しかし、ネタニヤフは和平が実現しては困る。戦争が続いていなければ、わが身が危ない。トランプがイランから手を引けば、ネタニヤフは見捨てられたことになります。ですから、イスラエルはたぶん停戦協定違反を犯して、停戦を妨害すると思います。アメリカは手じまいしたいが、イスラエルはイランとの泥沼戦争にアメリカを引きずり込みたい。その押し合いがしばらく続くと思います。<br />
　アメリカと湾岸諸国の関係も今度の戦争でかなり傷つきました。イランは報復措置として湾岸諸国の米軍基地を攻撃しましたが、これによって「抑止力神話」が揺らいだ。米軍基地があるので安全だったはずが、逆に米軍基地があったせいで攻撃されることになった。<br />
　どういうかたちであれ、いずれアメリカはぼろぼろになってこの戦争から撤退するでしょう。その結果、アメリカとイスラエル、湾岸諸国との関係は戦争前よりも悪化し、アメリカの中東での拠点は失われ、プレゼンスを喪失する。</p>

<p><strong>――　イランで戦闘が続く中、３月19日には日米首脳会談が行われました。</strong></p>

<p><strong>内田</strong>　今回の首脳会談では「実際に起きたこと」よりも「起きても良かったのに起きなかったこと」の方により重要な意味があると思います。<br />
　高市首相は「ホルムズ海峡にただちに自衛艦を派遣して、米国と共に戦います」と誓言したかったのだと思います。日本が「参戦」を約束すれば、国際的に孤立しているトランプにとっては、これほどうれしいことはない。当然高市を「なんと勇敢で賢明な指導者だろう」と絶賛するでしょう。ホワイトハウスでも国賓待遇で歓待する。米の御用メディアはトランプと共に戦うと宣言した高市首相の姿を英雄のように描くでしょう。<br />
　そうなると帰国後、高市首相はこう言うでしょう。<br />
「自衛隊の即時派兵を大統領に約束した。これを裏切ったら日米同盟は終わる。国際的に孤立しているアメリカにいま味方として参戦することによって初めて日本は真に対等なアメリカの同盟国になれるのだ。」<br />
　これはロジカルには正しいんです。アメリカは間違った戦争を始めてしまった。世界のどこの国もアメリカを応援してくれない。アメリカは困っている。そんな時こそ「恩を売る」絶好の機会である。<br />
　でも、官邸の側近たちは「絶対に派兵の約束をするな。『憲法九条があるから派兵はできない。可及的すみやかに改憲して、軍隊を海外に出せるようにするから、それまで待ってくれ』という以上のことは言ってはいけない」と首相を羽交い絞めにした。だから、首相はまことに不本意ながら「法理的に、日本にはできることとできないことがある」というあいまいな表現しかできなかった。<br />
　でも、トランプが望んでいたのは自衛隊の即時派兵です。「オレは憲法も国際法も気にしないで戦争を始めたぜ、お前もそうすればいい。」トランプはたぶんそう思っていた。でも、高市は「最大限のスピード感を持って、真摯に改憲に取り組みます」というような定型句しか口にできなかった。ホワイトハウスのアナリストは、日本の政治家が「最大限の努力を以て」というよう大仰な言葉を使うのは「とりあえずやらない」という意味だということを知っていたので、トランプに「高市は即時派兵する気ないですよ」とささやいた。トランプは高市に失望した。「こいつはチキンだ」と思った。ホワイトハウスのホームページに掲げられた日米首脳会談の動画やギャラリーの写真があれほど屈辱的なものになったのはそのせいです。高市首相が拳を突き上げながら叫んでいる写真が最初に掲載されています。動画には、真珠湾のことをトランプにギャグにされてぼんやりしている首相の顔、オートペンの画に差し替えられたバイデン前大統領の写真の前で大袈裟に驚き、笑ってみせる場面などが収録されています。高市首相がトランプにおもねっている場面だけを選択的に掲載したのです。動画の最後には、高市首相が「Thank you, Donald, for inviting me to the White House」と言った音声も収録されていますが、発音が不鮮明で、何を言っているのか聴き取れない。わざわざ何を言っているのかわからない部分だけを切り取ったのだとしたら、「英語もろくに話せないやつ」であることを誇示する意図でしょう。<br />
　この高市首相の醜態は全世界に配信され、日本がアメリカの属国であるという事実はありありと可視化されました。加えて、属国の代官という役割を忠実に演じたにもかかわらず、トランプの要求に１００％の回答ができなかったがゆえに、高市首相は「使えないやつ」の烙印を押された。高市首相はホワイトハウスのホームページを観て愕然としたと思います。首相のプライドも傷ついたでしょうが、日本の国家的威信も傷ついた。<br />
　確かに日本のメディアは「ほぼ無傷で乗り切った」と高市首相の外交手腕を高く評価しました。アメリカの戦争に巻き込まれずに済んだことは良かったと僕も思います。でも、それは憲法九条の功績であって、高市首相にとってはまことに不本意な結果だったはずです。<br />
　高市首相としては、自衛艦の即時派遣を大統領に約束し、大統領に「イーブン・パートナー」として持ち上げられ、帰国するや「日米同盟の信義」を盾にして「存立危機事態」を宣言して、九条を無視して自衛艦を派遣する...というシナリオを空想していたのだと思います。そうすれば戦後８１年を経てついに日本を「戦争ができる国」に作り替え、九条の軛を断ち切った「レジェンド」として歴史に名前を遺すことができた。でも、できなかった。悪いのは「絶対に自衛艦の即時派遣だけは約束しちゃダメですよ」と羽交い絞めにした官邸の腰抜けどもだ。高市首相はそう思って、深い絶望のうちにある。僕はそんなふうに想像します。<br />
　<br />
<strong>――　高市政権は日本の生存戦略を追求しているはずだと思いますが、高市政権の戦略をどう評価していますか。</strong></p>

<p>内田　高市政権の戦略はトランプに従属することだけです。だからトランプの歓心を買うためにバイデンの肖像写真を嘲笑してみせた。しかし、それが民主党や民主党支持者を敵に回したことに気づいていない。次の大統領選ではたぶん民主党が勝つ。民主党の大統領は高市がオートペンの絵の前でげらげら笑ってみせたことを決して忘れないていないでしょう。秋の中間選挙で共和党が敗けてトランプがレームダック化したら、高市もそれに従属してレームダック化する他ありません。</p>

<p><strong>――　岸田元首相はバイデンと共に去りましたが、高市首相もトランプと共に去ることになる。</strong></p>

<p><strong>内田</strong>　そういうことになると思います。自民党は大統領に合わせて総裁の首をすげ替えれば、アメリカの政権交代に対処できると思っている。２０２８年からの次の大統領のためには別の「首」が要る。<br />
　アメリカが再び偉大な国になる可能性はもう失われたと思います。アメリカでは大統領が変わる度に前政権の方針を廃棄し、前大統領の功績を全否定するということをこのところ繰り返しています。自分は１００％正しく、相手は１００％間違っているという非寛容なスキームでしか政治家たちがものごとを考えられなくなっている。トランプは前任者オバマ、バイデンの政策を全否定しました。次に民主党が大統領選で勝てば、今度はトランプの政策を全否定することになるでしょう。反DEIから、連邦議会襲撃犯の恩赦まで、トランプの発令したすべての大統領令をもう一度全部廃棄する。前任者の政治的「功績」を全否定するというようなことを選挙のたびに繰り返していれば、アメリカの国際社会における信頼性は地に墜ちるでしょう。<br />
　アメリカはグローバル・リーダーシップをすでに放棄し、かつての同盟国を恫喝と収奪の対象としています。カナダのカーニー首相は「ミドルパワーが団結しなければならない。私たちがテーブルに着かなければ、私たちはメニューに載ることになるだろう。（if we're not at the table, we're on the menu）」とダボス会議で語りましたが、これはかつてのアメリカの同盟国の立場をよく言い当てていると思います。スペインのサンチェス首相も、イタリアもメローニ首相も今回のイラン戦争に対しては明確にアメリカとイスラエルの行動を批判し、軍事行動への加担を拒絶しています。今、同盟国の中で明確なアメリカ批判ができずにいるのは日本と韓国だけでしょう。それでも、韓国は中東に特使を派遣して、イランとのコミュニケーションを探っている。<br />
　イランは日韓に対してホルムズ海峡通過の条件として、「今回のアメリカ、イスラエルのイラン攻撃は国際法違反である。イエスかノーかでお答えください」と迫ってくるでしょう。日韓はその前でためらっている。これに「イエス」と答えればタンカーは通れる。でも、トランプから「無能、腰抜け、愚鈍」と罵倒されることは目に見えている。トランプは「味方だと思っていたやつが自分から離れた場合」には激昂してそれから執拗に意地悪をし続ける人間です。マージョリー・テイラー・グリーンでも、タッカー・カールソンでもそうでした。「アメリカに非あり」と一筆念書を書けばタンカーは通れる。でも、高市早苗と李在明はSNSでトランプから怒涛のような罵倒を浴びて、日米同盟、日韓同盟はシリアスな危機に立ち入る。場合によっては日米安保条約、日韓相互防衛条約をアメリカが廃棄通告してきて、在日、在韓米軍が撤収するという展開だってあり得る。</p>

<p><strong>――　アメリカは戦後レジームから脱却している。そうである以上、日本も憲法９条と日米安保条約を両輪とする戦後レジームから脱却して、「ポスト戦後体制」を構想しなければなりません。</strong></p>

<p><strong>内田</strong>　高市は「大日本帝国の復活」を目指しています。憲法９条を廃棄し、国軍を保有し、「戦争ができる国」になろうとしている。スパイ防止法や国旗損壊罪を制定して国民統制を強める。これらの法律を通せば、制度的には１９３０年代の日本のような国に「退化」できる。でも、残念ながらし、それは大日本帝国の劣化版に過ぎない。今の日本には帝国を運営できるようなスケールの人間がいないからです。<br />
　たしかに大日本帝国は様々な欠陥を抱えた統治システムでした。でも、人材だけはいた。歴史的評価はさておき、明治維新以後の日本には「アジアをどう経略するか」についてスケールの大きなヴィジョンを描ける思想家や政治家や軍人が何人もいた。宮崎滔天、北一輝、権藤成卿、石原莞爾...数え上げれば切りがない。でも、今の日本にそんなスケールの人間はいません。「経綸の大事を託せる器の大きな人間を育てなければいけない」と思っていなかったんですから、いるはずがない。戦後日本が育ててきたのは「対米従属マシーン」を器用に回すことのできる小粒なイエスマンだけです。そんな連中が今の日本の支配層を形成している。そんな連中に「帝国」を運営できるはずがありません。</p>

<p><strong>―　内田さんは戦後レジームから脱却して、どういう「ポスト戦後体制」を目指すべきだと思いますか。</strong></p>

<p><strong>内田</strong>　アメリカはいずれ在日米軍を撤退させるでしょう。政府はアメリカに縋りついて「いてください」と掻き口説くでしょうけれど、アメリカは日本列島における権益だけは確保して、軍はグアム＝テニアンの線まで退くつもりでしょう。<br />
　日米同盟が空洞化した場合、日本にはそれほど多くの選択肢は残されていません。一つは日韓同盟。これまで繰り返し語ってきましたけれど、日韓が同盟すれば、人口1億８千万、GDP６兆ドル、ドイツを抜いて世界第三位の経済圏ができます。軍事力は日韓を合わせるとインドを抜いて世界４位。この日韓同盟が米中の二大帝国の間にあって、米中と等距離外交を展開する。米軍がハワイまで退き、中国が海洋進出に抑制的になれば、西太平洋に日韓を結ぶ広大な中立地帯ができる。東アジアは政治的には安定するので、国際社会はこれを歓迎するはずです。<br />
　韓国は人種、宗教、文化、政治体制において世界で最も同質性の高い隣国です。パートナーとなるとしたらここしかない。日本には天皇制がありますから、一国二制度になる。しかし、日韓が同盟して、外交安保政策で足並みを揃えれば、その国際社会におけるプレゼンスは今の比ではありません。米中EUと対等の政治単位になることも可能です。<br />
　日韓同盟は明治以来両国の多くのアクティヴィストの夢でした。１９１０年の「日韓併合」という歴史的失敗を適切に総括するだけの知力と度量が日本人の側にあれば、日韓同盟は可能だと僕は思っています。<br />
　もう一つの道は、九条二項を高く掲げて「東洋のスイス」のような永世中立国になることです。日本は医療、教育、観光・エンターテインメントでは世界のトップレベルにあります。だから、円安になったとたんに世界中から観光客がやってくる。通貨が弱くなったことはわれわれにとっては困ったことですが、そのせいで世界中から観光客が殺到したというのは、「機会さえあれば日本に行きたい」と願っていた人がそれだけ多かったということです。「日本に行きたい、できるなら日本で暮らしたい」という人々を世界中に創り出す。これは最も安上がりな安全保障です。日本に知人友人がおり、家や別荘があるという人たちは自国政府が反日的になって日本を軍事侵攻することに反対してくれるでしょう。「日本だけはやめましょうよ。あそこ、いい国なんですから」と。こんなタイプの安全保障政策を起案できる国は決して多くありません。「できれば中国に永住したい」とか「できればロシアに永住したい」とか思っている人がどれくらいいるか想像すれば日本のアドバンテージがわかるはずです。</p>

<p><strong>――　憲法９条も改正すべきですか。</strong></p>

<p><strong>内田</strong>　９条は１９４６年時点で憲法起草者たちの脳裏にあった「これから世界はどうなるか」という構想から生まれたものです。起草者たちはもし次に戦争が起これば、それは核戦争になり、人類は滅亡するだろうと予見していました。これを止めるには国連が「世界政府」になり、国連軍が地上最強の実力組織になる必要がある。加盟国間での紛争は国連が裁定し、従わない国には国連軍を送り込んで実力で処罰する...というシステムでしか核戦争は阻止できないと思った。公共を立ち上げることで、私人たちの安全と権利を保護するという近代市民社会の統治モデルを国際社会に拡大してみたのです。<br />
　ですから、９条起案者たちは、戦争放棄条項をいずれどこの国も採択するようになるだろうと考えていた。しかし、この予測は外れました。たしかに核戦争の勃発だけは阻止できましたけれども、国連の常任理事国自身が自国第一主義を掲げて、国際法を踏みにじって、平然と「力の支配」を誇示するようになった。今、国際社会は「万国の万国に対する戦い」というホッブズ的状況にあります。「強い公共」が存在しないアナーキーです。<br />
　言う人があまりいないので、僕が代わって申し上げますけれど、憲法９条が空洞化したのは、国連というアイディアが空洞化したからです。９条のリアリティ―は国連のリアリティーと相関していたんです。<br />
　でも、国連がそれでも一定の有効性を維持しているように、憲法９条もいまだに一定の有効性を維持している。実際、今回の日米首脳会談では憲法９条が盾になって、日本がアメリカの戦争に巻き込まれることを回避できた。<br />
　憲法９条のような非現実的な条項を廃棄しろというロジックを延長すれば「国連のような非現実的な組織は要らない」ということになる。強いものが欲しいものを手に入れて、弱いものは食い物にされる。それでいいじゃないか、そう言っているのと変わらない。<br />
　法というのは現実を叙するものではありません。あるべき現実の枠組みを示すことです。日本の法体系は明治末年までに整備されましたけれど、それはドイツやフランスの法律をほとんどそのまま翻訳したもので、当時の日本の実情とはまったく別のものでした。法典の字面だけを見ると、当時の日本が近代的な市民社会をすでに形成したように読めますが、これは事実と隔たること遠い。でも、法起草者たちは将来の見通しとしては、日本の生活が変わっていってこれらの法典が実情にあうものになるだろう考えていた。そういうものだろうと僕も思います。９条起草時点では、起草者たちは９条が世界の実情にあうものになるだろうと考えていた。その予測が楽観的に過ぎたことは事実です。でも、それ以外に日本人が向かうべきどんな理想があるでしょうか。<br />
（４月３日　聞き手・構成　杉原悠人）</p>]]>
        
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    <title>中高生からの質問４</title>
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    <published>2026-04-09T03:49:17Z</published>
    <updated>2026-04-22T00:12:25Z</updated>

    <summary>「先生のこれからの人生の計画を教えてください。」 　これも興味深い質問ですね。一つ前の質問は「内田先生のようになりたいの...</summary>
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        <name>uchida</name>
        
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        <![CDATA[<p><strong>「先生のこれからの人生の計画を教えてください。」</strong></p>

<p>　これも興味深い質問ですね。一つ前の質問は「内田先生のようになりたいのですが、これまでどのような努力をなさってきましたか？」でした。この二つの質問に共通するのは、「人間は未来を自己努力でコントロールできる」という前提です。でも、この前提、そんなに無警戒に採用してよろしいのでしょうか。<br />
　実は、僕は「未来を自己努力でコントロールできる」とは思っていないのです。一寸先は闇。次の瞬間に何が起きるかわからない。しばしば「どうしていいかわからないこと」が起きます。もともと予定もしていなかったし、予測もしていなかったことがいきなり起きる。だから、「人生の計画」というものは立てても仕方がない。そう思っています。<br />
　それに、うっかりすると自分が作った「人生の計画」が足かせになって、適切な選択を誤る可能性だってあります。例えば、高校生のときに「将来就きたい職業」を決めて、そのために全力で努力するということは、ふつうは「よいこと」とされています。でも、ほんとうにそうでしょうか。だって、君たちはこの世に存在する職業のうちのたぶん５％くらいしか知らないんじゃないかと思います。９５％の職業は君たちの脳内では選択肢として存在さえしていない。将来、禅僧になるとか、能楽師になるとか、武道家になるとか・・・って考えている高校生ってあまりいないと思うんです。でも、これはみんなほんとうの話ですよ。僕のお友だちの藤田一照さんが曹洞宗の禅僧になると決めたのは大学院の博士課程を出た後でした。うちの奥さんが能楽師になると決めたのは大学時代（英文学科だったんです）に「外国人のための伝統芸能ちょっとだけ経験コース」を受講した後でした。僕がこれからは武道家専業として生きると決めたのは大学の先生を退職した６０歳の時です。ぜんぜんそれまでの「人生の計画」に入っていなかった職業に就いてしまったのでした。わりとそういうものなんです。<br />
　ですから、「人生計画」というのはあまり立てない方がいいんじゃないかと僕は思っています。それよりは「この先何が起きるかわからない。自分はいったいどんな職業に就いて、誰と、どこで暮らして、どんな友人たちと出会うんだろう。ああ、楽しみ」と思ってどきどきしながら毎日生きる方が楽しくありませんか？<br />
　そういう構えで生きている人のところには「ねえ、ちょっとこれやってみない？」というお誘いがたぶんじゃんじゃん来ます。そして、それが後から思うと人生の岐路だったということもよくあります。<br />
　でも、「人生計画」をきっちり決めて、それに従って生きている人にはたぶん誰も「ねえ、ちょっと」という声をかけてくれません。いや、実際にはそういうお誘いがあっても耳に届かないかも知れない。<br />
　よく書くことですけれども、「天職」のことをcalling とかvocation と英語ではいいます。どちらも語源はcall/voco 「呼ぶ」です。誰かに呼ばれて、人はおのれの天命を知る。そういうものなんです。耳を澄ませて生きるというのが、一番賢い生き方だと僕は思いますよ。<br />
　ですから、質問へのお答えは「これからの人生についてはまったく計画がありません」です。<br />
　にべもないお答えでごめんね。</p>]]>
        
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    <title>中高生からの質問その３</title>
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    <id>tag:blog.tatsuru.com,2026://1.6032</id>

    <published>2026-04-07T21:42:48Z</published>
    <updated>2026-04-07T21:44:57Z</updated>

    <summary>「内田先生のようになりたいのですが、これまでどのような努力をなさってきましたか？」 　僕のようになりたいという人に初めて...</summary>
    <author>
        <name>uchida</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://blog.tatsuru.com/">
        <![CDATA[<p><strong>「内田先生のようになりたいのですが、これまでどのような努力をなさってきましたか？」</strong></p>

<p>　僕のようになりたいという人に初めてお会いしました。びっくりです。そう言って頂けるのは大変光栄ですけれど。<br />
　「ロールモデル」という言葉をご存じですか。英語だとrole model と書きます。「特定の役割において手本とされる人」という意味です。漢語には「私淑(ししゅく)」という言葉があります。こちらは『孟子』が出典です。孟子は孔子の１００年後くらいの人で、孔子の学統を継いではいますが、間に三人はさまっているので、孔子から直接学んだことはありません。でも、その教えの核心は受け継いでいる。そういう意味です。「私淑」は「私(ひそか)かに淑(よ)しとする」と読みます。<br />
　英語も漢語も「人をモデルに自己造形することは可能だけれども、それは限定的なものである」ということを強調しています。英語の場合は「模倣できるのは役割だけ」、漢語の場合は「模倣できるのは間接的な影響を通じてだけ」といういう含意があります。<br />
　つまり、人を真似することはできるけれども、それは「直接的かつ全面的なもの」ではあり得ないし、あってはならないということをどちらも教えているような気がします。<br />
　どうして直接的・全面的な模倣が禁じられているかというと、「模倣」にはかなり呪術的な、危険な意味もあるからです。<br />
　君たちでも、誰か友だちの言葉づかいを真似したり、身体の動かし方を真似したりすると、そこに「嘲笑」や「攻撃」の含意があることはわかりますよね。<br />
　「どこ行くの？」「どこ行くの？」「いや、オレがお前に訊いてんだよ」「いや、オレがお前に訊いてんだよ」「おい、ふざけんなよ！」「おい、ふざけんなよ！」というような展開があっという間に暴力的な帰結を見ることは誰でもおわかりになりますよね。<br />
　原理は単純なんです。完全な模倣というのは、同じ人間が二人いるということになるからです。<br />
君とそっくり同じ人がもう一人いるというSF的想定をしてみてください。顔も同じ、名前も同じ、考えていることも同じ。でも、家の中にも、クラスの中にも、一人分の席しかない。親友も恋人も一人しかいない。二人でに分けるわけにはゆきません。結果的にどちらか一人だけが生き残るために激しい競争と暴力を生み出す。<br />
　模倣欲望が殺意に変わる恐怖を描いた物語に『氷の微笑』という映画があります。NetflixかAmazon Primeで観られると思いますけれど、観るのはご両親がいないときにしてくださいね。<br />
　そういうわけで、人間社会では模倣についてはかなり精密で厳しいルールがあります。それは「ある程度以上模倣してはいけない」という限度の設定です。<br />
　「おはよう」「あ、おはよう」「いい天気だね」「そうだね。いい天気だね。」「もう春だね」「桜、咲いてきたしね」くらいの、同じ言葉を繰り返しているのだけれど、微妙に言葉づかいを変えるという気遣いがたいせつなんです。<br />
　完全に同じ言葉の繰り返しだと暴力沙汰になるし、「おはよう」「腹減った」「朝ごはん食べなかったの？」「くそ暑いな」「そんな厚着しているからだよ」「金貸して」みたいなのはもうコミュニケーションとさえ言えませんし。<br />
　話があらぬ方向に逸脱しましたけれど、誰かの生き方を真似るというのは、もちろん自己造形上にとても有用なことなんですけれども、節度を持つこともたいせつですという話でした。</p>

<p>　でも、これでは全然質問の答えになっていませんね。僕は今の自分みたいになるためにどんな努力をしてきたのか・・・べつに努力したつもりはないです。気がついたらこんな人間になってしまっていた。僕がこんな人間になった理由の９０％以上は僕以外の人から受けた影響です。両親と兄、妻や娘や友人たち、そして二人の偉大な師の影響で「こんな人間」になりました。出会いは選ぶことができません。「影響を受けるために努力する」という表現はあり得ないですからね。<br />
ですから、ご質問へのお答えがあるとすれば、「出会いをたいせつにしてきた」ということになるでしょうか。<br />
　君にもよい出会いがありますように願っています。</p>]]>
        
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