若者はいらだち老兵はますます孤独を抱える
■心情も、発言の場所が違えば幾分違って聞こえるものでしょうか。
【日中韓】元日本兵の小山一郎さんが韓国のテレビで証言:「ウサギ狩りで練習して、中国人を強制連行した」(動画あり)[03/17]
783 :Goddess☆真紅 StrikerS+ ◆Sinku/DHFw :2007/03/17(土) 17:07:00
>>1 裁判で終わったんじゃないの?
中国人民の寛大政策について
藤田茂
山東省で「労工狩り」などを実行した第59師団の最後の師団長が私であります。
(抜粋)
軍事裁判
1956年6月、私たちに対する軍事裁判が始まりました。正しくは中華人民共和国最高人民特別法院軍事法廷であります。
この裁判は2回に分けて行われたのです。第一次が私たち師団長2名、旅団長2名、連隊長1名、情報将校1名、軍医1名の計8名です。
第二次は28名で、満州国の行政官・警察・憲兵・特務機関・その他機関の主な責任者たちでした。
裁判が始まりますと、一人一人に起訴状が手渡されました。この起訴状の中に不審な点があれば申し出るようにとのことでした。私の起訴状を
読んでみますと、連隊長・旅団長・師団長当時の罪行が7項目に分けられてありました。
その罪状は軍事上のことはほとんど述べられていません。もっとも大きな問題は、平和住民の虐殺、平和住民の酷使、家屋の破壊と焼却、食料と
家畜の略奪、婦女子の強姦、捕虜の殺害などであります。
私は日本から送られてきた週刊誌を読んだことがありますが、その記事の中に各国の軍事裁判の様子が載っておりました。ポツダム宣言第9条には、
捕虜を虐待した者は厳罰に処すとあります。これによって1200余名の日本軍将兵が死刑に処せられているのです。私が師団長のとき行いました秀嶺
1号作戦というのがあります。この作戦だけで私は捕虜86名を虐殺したという一項が起訴状に載っております。この一項だけでも私は当然死刑だと覚悟
を決めたのであります。
その中でもっとも印象に残る証言について述べます。
それは私が連隊長の時代、山西省安邑県に上段村という村がありますが、その部落に共産軍がいるという情報が入りましたので、「直ちに補足せん
滅すべし」という師団命令をうけて、私は部下を指揮してその部落に向いました。夜明け前、折りしも移動しつつある敵50名と遭遇、ただちに戦闘に入
りました。白々と夜が明けるころ戦闘は終わりましたが、私はまだ部落の中に敵が潜んでいるかもしれないと思い、部落の掃討を命じました。
私は部落の城門付近に腰をすえて部落内の様子をうかがっておりました。あちらこちらで火の手があがる、単発的な銃声が聞こえる。私は「また何か
やってるワイ」といった程度にしか思っていませんでした。
しかし、このときの罪状によりますと、住民の老若男女140名を殺害したうえ、井戸に投げ込み、捕虜12名を殺害し、100余軒の民家を焼失させたのです。
この時の証言に立った張葡萄という62歳になる老婆は、このため一家が皆殺しにされ、ただ一人生き残ったのです。老婆は当時の情況を話している
うちに段々興奮してきて、怒りのために体が震えだし、顔は汗と涙と鼻水とよだれでクチャクチャで、それは物凄い形相でした。老婆の白髪まじりの頭髪は
憎しみで逆立っていました。
私はこの老婆の怒りと憎しみでくしゃくしゃになった顔がまぶたに焼きついていて、生涯消えることはないでありましょう。
私はいちおう死刑の覚悟をしておりましたが、証言を聞き終えたとき、心の底から死刑は当然だと思うようになりました。
裁判長は「今の証言に対して被告はどう思うか」という質問をしましたが、私はもう弁解無用と感じておりましたので、「まったくその通りです。
本当に申し訳ないことをいたしました」と素直に答弁いたしました。
このようにして10日間で8名の軍事裁判は終わりました。そして6月19日、判決が言い渡されました。私に対する判決はまったく予想外でした。
なんとただの18年の禁固刑だというのです。しかもこの18年は抑留の全期間を通算するというのです。日本敗戦後、ソ連での5年間、中国での
今までの6年間を通算し、すでに11年が経過し、あと7年間の禁固刑というのです。7年たてば、この私を日本に帰すというのです。
なんと夢のような話なのです。
裁判長の「今の判決に対して被告は申し述べることがあるか」という質問に対して、私は「まったく予想外の寛大な判決でありただ感謝のほかございません。
しかしながら、ここにおられる26人の証人は皆、極刑を望んでいます。こんな軽い刑では納得されないのではありませんか」と偽らざる心境を述べました。
この軍事裁判により、もっとも長い者で20年、短い者で13年の判決を受けたのです。
2ちゃんねる
以下同じ内容の事柄を「中帰連」というサイトより抜粋しました。
生存の記 ― 私の変革 ―藤田 茂
http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-sit
e/backnumber/16/hujita_seizonki.htm
<取調べと軍事法廷、そして判決 >
そのうちに、いよいよ裁判所に行くことになった。
この一週間に、私は起訴状をもらった。
7項目あったが、作戦上の罪は何も書かれていない。駐留間に私の部下が、どこそこで糧
秣をいくら盗んだ。その際に平和な住民を何名殺害した。旅団長時代にどこそこにおいて
、住民を何名殺した。師団長の期間において、討伐時、住民を三百何名殺害し、糧食何斗
を略奪した。殊に婦人六十何人を強姦した。師団長在職中に捕虜89名を死に至らしめた
。このような罪科が述べられている。
私はこれを見て、ポツダム宣言に「捕虜を虐殺したものは厳罰に処す」という一項目が
あるのを考え、当然、死刑を覚悟した。
検事が来て、「この起訴状に不審の点があれば申出なさい」と言う。私の連隊長時代の
罪科のうち、「ある部落で住民24名虐殺」と予審のとき告訴状を見せられたことを覚え
ており、起訴状に一名虐殺となっていたので、「これは1名でなく、24名だ」と検事に
申し出た。検事はそうかと、その時は帰ったが、一週間ぐらいして、文書の束をもってき
た。
その土地の住民の口述書を飛行機でとりよせたらしい。これによると、私の前任連隊長
時代から通算24名になるので、お前の時には1名だ、と書類を見せる。私はこの一事を
みただけで、この調査はすこぶる正確だなと考えた。
これより以前、私の作戦について、全部で四百何十枚も書いて提出してある。それに基
いて事実を調べている。だから、起訴状には余程正確なものしか載っておらず、私の提出
書類と告訴状が一致したもののみに限られている。
しかし、私の知らんものも随分あった。強姦やれと私が言って、私は強姦しましたと報
告する奴は誰もおらん。たった三週間のあいだに、六十何名を強姦したと、やりやがった
なと数字を見て初めて驚ろいた。しかし、私はこれだけの罪科をみただけで、極刑はまぬ
かれぬ、と肚をきめた。よし、俺は全てに責任を負い、潔く刑をうけようという決意で法
廷に出た。
ところが、法廷では、被害者が次々に立ち、悲凄、憤怒、憎悪の姿で訴える。あるお婆
さんなど、裁判官がいくら注意しても止めようとしない。同じことを二十数回も繰り返え
し、自分の席から立って私のところへ噛みつかんばかりにしてやってくる。看守がやっと
これを押えるというような状態もあった。
全く聞くに堪えられない立場に立たされたわけだ。一人の証人が話し終わる毎に、「今
の行動にたいして被告はどう思うか」と裁判長に言われる。「その通りです」と言わざる
を得ない。私は、徹頭徹尾これで通す以外になかった。
判決をうける前に「俺は死刑だ」と判決を自ら下していた。私の考えたことは、如何に
して日本の軍人らしく従容として死ねるかということだったが、自信がない。そこで先づ
第一に言うことは、首吊りでは嫌だ。如何にもバタバタして13階段を上がる間にどんな
ことがあるかもしれん、一番確かに階段を上ることは目隠しをとることだ。しかし、果し
て縄がぶら下がっているのを見ながら、それを正視して上がれるかどうか、俺はそれだけ
修養をつんでいるか、これにも自信がない。一番良いことは銃殺だ。バン!と一発で終り
になる。
いよいよ判決が下った。「18年の刑に処す」と聞いたときは、本当にもう震えるよう
な感じがした。これぐらい不幸のドン底から、幸福の先端まで走ったことはない。
とにかく、帰れるということが前提なんだ。何年という刑は……。しかも、「抑留の日
から通算す。抑留とはソ連に抑留の日から通算」こういうわけだ。指折り数えてみると、
あと7年だ。私は今71才かな、すると生きて帰れるかもしれん。実にわけのわからん気
持ちになった。判決の終ったあとで、裁判長が「この判決に対し、被告の感想があれば述
べよ」と言う。私は予想外の軽い刑なので「感謝しています…。しかし、ここに居られる
被害者の方々、また居られない家族の方々も、恐らくこの判決に対しては納得されないで
しょう」。私は、これ以上、なにも言う言葉がなく絶句した。「それでは帰りなさい」こ
ういうことで帰ってきた。
小山一郎さんが「人間改造」教育を受けた中国・撫順管理所を見学した人の手記
http://www.geocities.jp/t111313/china-n-e/s
enpan.index.html
・・・・・・1949年9月、日本の侵略を打ち破り中華人民共和国を成立させた中国
共産党は、日本人戦犯を各地の戦犯管理所に収監し、戦争犯罪の記録を克明に記録させた
という。撫順管理所もその一つで、今回同行させていただいた小山一郎さんはここに5年
間、ラストエンペラー溥儀(ふぎ)らとともに収監され、「人間改造」教育を受けた。
小山さんら戦犯は、シベリア抑留から中国に連れ戻された時、いつ死刑になるかと毎日
おびえて暮らしていた。そして食事がきちんと与えられることに乗じて、ひそかに貯え、
逃亡を準備していたという。しかし、ここ撫順に収容された戦犯は一人も死刑されずに日
本に帰された。これを「撫順の奇跡」というのだそうだ。構内には元戦犯らが建てた「謝
罪碑」がある。
・・・・・・この管理所で戦犯の指導員をしていた崔(サイ)さんも出迎えてくれた。
当時の指導員では現在ただ一人の生存者という。 サイさんの話によれば、中国共産党指
導部は、戦犯を死刑に裁くより、平和な日常を尊ぶ“普通の人間”にして日本に帰す方が
、将来の中国に有益という判断で、この管理所の運営にあたったという。
が、日本軍への恨みは深く、そんな管理所の職員を喜んで引き受ける人はいなかった。
当時、弱冠21歳の崔さんが戦犯指導員の任務に命じられた。崔さん自身もまた日本人へ
の憎しみを抱く一人だった。気持ちの矛盾に悩みながら、戦犯には自分達よりおいしい食
事を与えていたという。
室内の多くのスペースは、抗日運動から戦後までの歴史展示室になっていて、小山さんら
戦犯の暮らしや教育を受けている写真もあった。戦後日本の安保闘争や平和運動の写真な
どもあり、中国が日本国内の動きになみなみならない注意を払っていることが察せられた
。
小山さんによると、日本に帰った元戦犯らはその後、「中国帰還者連絡会」をつくり、
日中友好のために侵略戦争の証言者として活動してきたという。たった一人の例外をのぞ
いて。
元兵士の方々の第二次世界大戦の捉え方は配属先によってはそれぞれ全く違ったものにな
っても仕様が無いないなと思いました。
ですから例えば「愛社精神」を示せと「会社」に言われても、怖ろしく嫌な仕事その結果
怖ろしく嫌な体験になった場合はかえって「会社」を憎むことがあっても辞めることがで
きないのが「国」だと思いますから愛憎入り乱れた想像もできないような心持だろうなと
思いました。